縁側に取り付けた風鈴が、湿った風に吹かれて少しだけ音を立てた。金魚鉢の形をしたこの風鈴は、いつだかサンが買ってきたものだ。風鈴なんてただの気休め、いや、気休めにもならない。夏の暑さはそんなものではしのげない。しかしそれを見つめる彼女の横顔があんまり可愛かったから、ボクはあの時何も言わなかった。





花 葬  … story 2





夏祭りから帰ったその夜、ボクは性急に彼女を抱いた。部屋に入るなり壁に彼女を押し付けて、抵抗する彼女を力で制し、彼女が泣くのもお構いなしで事を運んだ。浴衣姿の彼女が綺麗で自分を抑えられなかった、といえば、それも嘘ではない。しかしそれは表向きの言い訳だ。だって彼女は浴衣姿でなくても、いつだって綺麗だし。だから本当の理由はそれではない。


本当は、キスだけでやめるつもりだった。なのに、彼女がそれを拒んだから。いつものような愛嬌で拒んだのではなかった。その目は全くボクを見ていなくて、何かに気をとられているが故の拒絶だったから、ボクは何が何でもその目に自分を映してやろうと思ったのだ。彼女が何に気をとられていたのか、ボクは分かっていた。だからこそ、無理やりにでも抱かなければいけなかった。独占欲というその言葉だけで片付けられたら、どんなにいいだろう。


翌朝目を覚ますと、隣で寝ていた筈のサンの姿がなかった。彼女は朝に弱いから、先に目を覚ますのはいつもボクの方。だから起きた時に彼女がいない、そのことが、妙にボクの心を波立たせた。これが今日でなかったら、「あぁ今朝はたまたま早く目が覚めたんだな」で済むのだが、昨夜あんなことをしてしまったものだから、何となく嫌な感じがした。自業自得としかいえない。


だるい体を起こして洗面所に向かうと、風呂場の明かりが点いていることに気がついた。シャワーの水音の向こうにいるのは間違いなく彼女で、そう思うとほっとするような、気が重いような。ボクは顔を洗うと、先に食卓に行って、朝食の準備を始めた。


「…おはよう…」


しばらくすると風呂上りのサンが現れた。洗った髪を一つにまとめている姿は、何とも色っぽい。


「この朝ご飯、喜助君が作ってくれたの?」
サンの好物ばっかでショ。蜆の味噌汁に、卵焼きに、小松菜のお浸し」
「うん…、ありがとう」


サンはそう言うと席に着いた。束ねた髪の先から、雫が滴り落ちる。髪を乾かさずにうろうろするのは彼女の悪い癖だ。いつもなら真っ先に髪を乾かしてくるように言うのだが、今日は言い辛くて、ボクも同じように席に着いた。


「…あの、サン?」
「なに?」
「夕べは、あんな事してすみませんでした」
「………」
「…怒ってます?」
「…怒ってないよ、ぜんぜん」


彼女はそう言って少し笑った。そして箸を手にすると、いただきます、と言ってボクの作った朝食を食べ始めた。きれいな箸使い。ボクはサンの食べているところを見るのが好きだ。かつて本人にもそう伝えたことがあったけど、その時彼女はとても照れていた。そんなところも可愛いな、と思ったのだが、さすがにそれは言っていない。


ボクも自分で作った味噌汁に口をつける。我ながらなかなか美味くできたと思う。彼女の機嫌を気にして、彼女の好物を用意した自分が何だかひどくちっぽけに思えた。





元来ボクは狡い男なのだ。ずる賢い、と言われることもあるが、自分ではただの狡い男だと認識している。思えばこの狡さで、今まで色々なことをしてきた。自分の成功の為にその狡さを用いたこともあるし、誰かを自分の意のままにする為に用いたこともある。そのせいで誰かを傷つけたこともきっとあっただろう。しかしそれも仕方ない、と考えるのがボクなのであり、そう考えられない人は狡い人にはなれない。狡いことは非情であることに似ている。さすがに自分のことを非情とまでは思わないが、似ているな、とは常々思う。


サンを手に入れられたのも、ボクが狡い手を使ったからだ。ただ、その狡さは、サンを少しは救うことが出来たのではないかと思っている。ボク達がこうして仲良く一緒に住むようになるまでの彼女は、見るに耐えなかった。それが今ではけらけらと楽しそうに笑ったり、たまに怒ったり泣いたり、すっかり元気になったのだから。





― 四楓院隊長に言われて、来ました。
― ボクも夜一さんから聞いてるッスよ。だから大丈夫。
― 浦原隊長…私はもう、死神には戻れないんですか。
― …残念ながら君の霊力は、今や一般的な人間よりも下だ。
  この先多少霊力が戻ったとしても、死神に戻るのは到底無理ッス。
― …ずっと現世で生きていく、ってことですか。
― そうッス。でもボクの所に来てくれたんだ、不幸にはしません。だから、安心して。






夜一さんが寄越してきた彼女は、そうしてボクのものになった。もちろん最初からそう上手くいったわけでは無い。それでも大人の男と女なのだから、ずっと二人で一緒にいれば、自然とそうなるように出来ている。初めて体を重ねた夜から、彼女はボクを、浦原隊長ではなく、喜助君、と呼ぶようになった。


サン」


ボクは箸を置き、畏まるように両手を膝の上に置いた。彼女が目を丸くする。


「なぁに」
「昨夜はほんとにすみませんでした」
「…だから、いいって」
「ボク、自分でも思ってた以上に、あなたのことが好きなんスね」
「………好きなんすね、って、言われても」
「思ってた以上に、誰にも獲られたくないって思ってるみたいだ」


サンの動きが止まる。さっきまでしっかり合わせていた目を、不意に彼女から逸らした。どうしてそこで視線を逸らすんだ。そこで笑ってくれれば、それでいいのに。そんな身勝手なことを思うと同時に、そりゃそうするよなあ、とも思う。だからボクはそれ以上何も言わなかった。


五十年前ここに来た時はぼろぼろだった彼女が、次第に再生し、元気になってきたところなのに、今ここで、またぼろぼろになろうとしている。彼女の足場がぐらついているのが目に見えて分かる。もしも今、強い風が吹いたり、強い勢いで何かが流れ込んできたりしたら、きっと彼女はどこかへ行ってしまうだろう。ボクの手をすり抜けてしまうだろう。そして行きつく先は、きっと、彼の処なのだろう。百年前に死んだ、彼女の愛する人。