夏の夕方のにおいが好きだ。それも真夏も真夏、うだるように暑い日の夕方が好き。特別な思い出がそこにあるわけでは無いのに、なぜか懐かしく感じて、泣きそうになってしまう。それは尸魂界でも、現世でも変わらない。 花 葬 … story 1
夏祭りに行こう、と言い出したのは喜助君だった。 この町の夏祭りは大きすぎず小さすぎない、親しみやすい良い夏祭りだ。しかしこれまで一度しか行ったことがない。いつも部屋の窓から遠くの花火を眺めるだけで、一度だけ行ったのは、初めて現世に来た年のこと。だから喜助君が突然、今年は夏祭りに行きましょう、なんて言ったときは驚いた。 「浴衣、用意して正解でしたネ。あなたにはその色が一番似合う」 「これ選んだの喜助君なの?」 「モチロン。濃紺に深紅のアネモネ模様。ちょっと珍しいデショ」 「浴衣は綺麗だけど…ちょっと派手すぎない?」 私が言うと喜助君は、とっても似合ってます、と言って笑った。 この派手な浴衣を着るのは少し気恥ずかしい。しかし確かに喜助君のセンスの良さが表れていると思う。そして自分で言うのも何だけれど、似合っていない、ということも無いと思う。好きな男が見立ててくれた服を着ているのだ、少しくらいは自惚れてもいいだろう。 夏祭り会場は浮き足立った人たちでいっぱいだ。どこを見ても誰もが笑顔でいるものだから、つい私もはにかんでしまう。ちらりと喜助君を窺い見ると、帽子のせいで目元はよく見えないものの、口角が僅かに上がっているのは見て取れた。喜助君はきっと本当に夏祭りに来たかったんだろうな、と思うと嬉しくなった。生来喜助君は、お祭りのような賑やかなことが大好きな人なのだ。 その時、ドン、という大きな音が空気を震わせた。 周囲の人がいっせいに空を見上げる。視線の先の真っ黒な空間に、鮮やかな花火が堂々と開いていた。 「お、始まりましたネ」 「うん、家で見るのもいいけど、近くで見るとやっぱり迫力が違うね」 すぐに次の花火が打ち上げられる。一度目は赤と黄色の花で、二度目は青と緑の花。花火は尸魂界にもあったし、尸魂界のものの方が派手だったけれど、現世のものは現世のもので趣があって美しい。そう思ったけれど、それは言わないでおいた。私は綺麗なものを見れば綺麗だと喜助君に言いたくなるし、悲しいことを知れば悲しいと言いたくなる。だけど、この花火のことは言わないでおこうと思った。喜助君はまだ、現世のことをあまり好きになれずにいるようだから。 隣に立つ喜助君の手を軽く握ってみる。すると喜助君も、何も言わず強い力で握り返してくれた。もしかしたら喜助君も、尸魂界の花火を思い出しているのかもしれないな。私たちは暫くその場に立ち尽くして、黙ったまま花火を見上げていた。 帰り道も手を繋いで歩いた。川べりの道は風がひんやりしていて気持ちがいい。喜助君は普段から下駄を履いているけれど、私は下駄を履くのは久しぶりだったから、なかなか思うように歩けなかった。そんな私のペースに、喜助君は合わせてくれていた。 「夏祭り、どうだったッスか?」 喜助君が前を向いたまま問うた。 「現世の花火も、綺麗だったッスか?」 私は一瞬答えに詰まって、それでも小さく頷いた。わざわざ嘘を吐く程のことではないと思ったし、喜助君が私の心を読めることも知っていたから。 「現世の花火も、雰囲気があって綺麗だったわ」 「なら、良かった」 それまで前を向いていた喜助君が、そう言ってやっと私の方を見てくれた。私も顔を上げて、にっこりと笑ってみせる。喜助君も微笑んでいる。けれどその笑顔には、何ともいえない切なさが滲み出ていて、胸が痛くなる。良く言えば、男の哀愁と言えるのかもしれないけれど、実際にはそんな洒落たものではないことを私は知っている。彼の笑顔は、深い傷を負ったことも、負わせたこともある人の笑顔だ。 「ボクも、祭りだとか花火だとか、好きだったんスけどねェ…。 今まではなかなか気が向かなくて、あんまりあなたを連れてきてやれなかった」 自嘲気味に喜助君は言うと、帽子を深く被り直した。 私は小さな声で、知ってるよ、と言った。喜助君が、さすがサンだ、と言った。 祭りから家路に着く人々の足取りは、軽やかなものから気だるげなものまでそれぞれだ。その中で、私たちの足取りは明らかに重い。帰りたくないわけではないのだけれど、楽しく足を運ぶ気分では到底無かった。 あまり晴れやかでない気分のまま暫く黙って歩いていると、向こうの方からやたら騒がしい2人組が歩いてくるのが分かった。きっとお祭り気分で浮かれているのだろう。そう思って私はさして気にも留めなかった。しかし、彼らとの距離が縮まるにつれて聞こえてきた声に、思わず意識が集中してしまった。 「せこいで!自分が得意やからって、勝負持ちかけたんやろ!それが男のやる事か!」 「アホ言え、オレは正々堂々やりましたー。悔しかったらもっと練習しィ」 「練習なんかどうやってやんねん!金魚掬いなんか、祭りの時ぐらいしか出来ひんやないけ!」 「俺かて特に練習したわけやないしなァ。ま、生まれ持っての才能っちゅうやつやな」 この辺りでは滅多に耳にしないイントネーション。けれどそれは、体の奥が震えるような懐かしさを持つイントネーション。近付いてくる彼らの姿が徐々にはっきりと見えてくる。口が勝手に、喜助君、と隣にいる人の名前を呼んだ。 「…きすけくん、」 彼らと完全にすれ違おうという時、私の足は完全に止まってしまっていた。もちろん私に合わせて、喜助君も足を止める。握った手に力が込められるのが分かった。 やいやいと賑やかに盛り上がっていた彼らも、立ち止まっている私たちに気付くと足を止めた。先に足を止めたのは前を歩いていたジャージ姿の少女で、それに続いて歩いていた、痩せたおかっぱ頭の男も、ゆっくりと歩みを止めた。 「………何や、…帰り道、間違えてもうたみたいやなぁ」 ジャージ姿の少女が、私たちを見て皮肉たっぷりにそう言った。好戦的なその瞳は、私の意識を一瞬で百年前に引き戻す。死覇装の背に刀を携えた彼女の姿が、鮮明に蘇る。猿柿ひよ里、十二番隊副隊長。 「アハハ、相変わらずッスねェ、ひよ里サンは」 喜助君は明るい声でそう言った。緊迫した空気が、ほんの少し緩和される。 「お元気ッスか?ひよ里さんも、…平子サンも」 「……相変わらずなんはお互い様や」 吐き捨てるように猿柿副隊長は言う。喜助君はまた、アハハ、と笑ってみせた。 喜助君と手を繋いで、何も言えず突っ立っている私。そして猿柿副隊長の後ろで、何も言わずに立っている、人。決まりの悪そうな顔をしているその人は、紛れもなく、百年前、私の上官だった男だ。そして狂おしい程に愛し合った、唯一の男。 川の方から、瑞々しい風が吹いてくる。ちぎれてしまいそうな空気の中で、私の浴衣の袂だけが、ゆらりゆらりと舞っていた。 |