よく乾いたシーツを物干し竿から下ろすと、ふわりと優しい香りがした。それは喜助君と私の2人が気に入って買った、青い柔軟剤の香り。シーツをくしゃりと抱えて、顔を埋めてみる。涙が出そうな位、喜助君の顔が浮かんだ。





花 葬  … story 3






「喜助くーん、今晩カレーでいいー?」


畳んだシーツを抱いて階段を下りながら、居間でくつろぐ喜助君にそう声をかけた。昔ながらの日本家屋であるこの建物は、家の中のどこにいても互いの声が聞こえるくらい、防音という観点からは程遠い造りになっている。


「いいッスよー。サンのカレー、久しぶりだなぁ〜」


そう答えた喜助君の声と共に、パチン、と何かの弾ける音がした。何の音かと思い、寝室に行く前に居間を覗くと、喜助君が手の爪を切っていたのだった。こちらに背を向けて胡坐をかいている、彼の目の先には自身の手。私は彼の体の中で、手が一番好きかもしれない。次は首筋。その次は何だろう、顔か背中かな。そんなことを考えながら、とりあえず寝室に行ってシーツを片付けた。


そしてまた居間に戻ると、喜助君はもう爪を切り終わっていて、今度は大して興味もなさそうにテレビを見ていた。尸魂界にはテレビという娯楽が無いので、現世に来て初めて見たときはその仕組みがさっぱり分からず興味もあったが、そのうち慣れてくると、全く興味が無くなってしまった。それは喜助君も同じだったようで、最初は物珍しさで買ってみたものの、後々どうでもよくなってしまい、ほとんど見なくなったらしい。それでも本当にたまに、喜助君はテレビの電源を付けることがある。


「何見てるの?」


私はそう言うと、驚かせてやる位の気持ちで、喜助君に後ろから抱きついた。けれど喜助君は全く驚くことなく、体勢はそのままで、私の頭に優しく手を置いただけだった。


「何も見てないッスよ」
「テレビ付けてるじゃない。これ、少し前にやってたドラマの再放送でしょ」
「そうなんスか?知らなかったな」
「ねえ、どうしてテレビなんか付けてるの?珍しいね」


私の台詞に喜助君は首だけで振り返る。顔同士の距離がぐんと近くなって、思わず胸が高鳴ってしまう。キスが来るかな、と一瞬思ったのだけれど、喜助君はにっこりと微笑んだだけだった。


「暇だったから。ただそれだけッス」


そう言うと喜助君はリモコンを掴み、テレビの電源を切った。そのリモコンを掴んでいる手を、今度は私が掴む。骨張った大きな手。爪は少し短めに切り揃えられている。喜助君は手先を使う作業が好きなので、短い爪の方が都合がいいらしい。


私は後ろから抱きついた格好のまま、喜助君の左肩から顔を覗かせ、その左頬に唇を押し当てた。喜助君の手とリモコンも掴んだまま。それは無理な体勢だったから少し辛く、私は一度体を離すと、きちんと喜助君の前に回り、今度は正面から唇にキスをした。それはほんの少し触れるだけのもの。一緒に住むようになってもう随分経つけれど、自分から長いキスをすることは、未だに羞恥心が邪魔をするのだった。まあ、私からそうしなくても、いつも喜助君から求めてきてくれるので、そんなに困ることは無いのだが。だけど今回は違った。私がキスをしてみても、喜助君はそれ以上を求めてこなかった。にこりと優しく笑って私の髪を撫でるだけ。正直に言うと、物足りない、と思ってしまった。


喜助君は最近、自分から私に触れようとしない。いつもは私が嫌になる程べたべたとくっついてくるのに、全くと言っていいほど触れてこない。どうしてか、と考えてみた時、その答えが案外すぐに出たので、私はそれ以上考えるのをやめた。喜助君がいつもみたいに求めてこなくなったのは、あの夏祭りの夜からなのだ。


「…カレーの材料、買いに行ってくるね」


そう言って立ち上がると、喜助君が、行ってらっしゃーい、といつもの調子で言った。





喜助君は、いつでも私を大事にしてくれる。どんな時でも私を一番に考えてくれていると思うし、私の感情や体調を何より重視してくれる。そういう底知れない優しさがあるから、私は喜助君を好きになった。そしてその優しさがただの優しさではなく、苦痛も絶望も全て知り尽くした上での優しさであることが分かっているから、尚一層のこと喜助君のことを、いとおしい、と思うようになった。最初に現世に来た時、私は絶望でいっぱいだった。それを救ってくれたのは喜助君。私は喜助君を好きだと思う気持ちと同じくらい、喜助君に恩返しをしたいという気持ちも持っている。


喜助君の優しさが、私を救ってくれた。
私も喜助君が大切だし、心の底から好きだと思える。
それは疑いようの無い真実。
それなのに、あの夏祭りの夜から、何かが、変わり始めている。


夏祭りになど、行かなければよかった。いつものように窓から花火を眺めていれば、きっと今日喜助君はテレビの電源も付けなかっただろうし、買い物に行くという私にも付いてきてくれたに違いない。あの夏祭りで、現世の花火を目の当たりにしたこと。川べりを2人で歩きながら言葉が見つからなかったこと。そして、彼らに再会してしまったこと。それに加えて、喜助君が無理やり私を抱いたことで、完全に何かが違い始めた。喜助君があんな風に私に触れることなんて、今まで一度も無かったのに。きっとあれは、喜助君に余裕が無くなってしまったからなんだろう。全てが重なって、今、少しずつ、上手く立っていられなくなってきた。





買い物を終えてスーパーを出る時、私は相当ぼんやりしていたのか、入れ違いに店に入ってきた子どもとぶつかってしまった。力が抜けて、手に持っていたレジ袋を落としてしまう。


「あ、…ごめんなさい」


私はレジ袋を拾い上げながら、そこに立っている子どもの方に顔を向けた。そしてまた、レジ袋を落としてしまった。買ったばかりのじゃが芋が1つ、袋から転がり出る。


「………猿柿、副隊長……」


子どもだと思ったのは、数日前に顔を合わせた猿柿副隊長だった。身なりは昔とは違うけれど、その鋭い目つきは何も変わっていない。猿柿副隊長は冷たい表情のまま、転がり出たじゃが芋を袋に拾い入れると、袋を私の手に持たせようとした。けれど私の手からは完全に力が抜けてしまっていて、上手く袋を持つことができない。


「…そないビビらんでもええやんけ」
「も、申し訳ございません…」
「その話し方やめぇ。うちはもう副隊長でも、死神でも何でもあらへん」


猿柿副隊長はそう言うと、ほんの少しだけ表情を緩ませた。


「何十年も会うてへんかったのに、おかしなもんやな。
 こないだえらい久々に会うたと思うたら、またこうやって顔合わすとはなあ」


口元は笑っているようなのに、目つきだけは鋭く私を見ている。見ているというか、睨んでいるといってもいいかもしれない。猿柿副隊長は、黙ったままの私にこう言い放った。


「今日はうちしかおらんで、よかったなあ」


夏祭りになど、行かなければよかったのだ。