喜助君が待っている。買い込んだじゃが芋や人参も重い。今日は早く帰ってカレーを作って、2人でゆっくりして、夜は一緒に眠るんだ。だから早く帰らなくちゃ。そう思っていたのに、私は猿柿副隊長に連れられるがまま、気が付けば河川敷へと来ていた。戸惑う気持ちはあったけれど、いつかこんな日が来るんじゃないかと、心のどこかで、覚悟もしていた。 花 葬 … story 4
陽の沈みかけた河川敷では、キャッチボールをする子ども達や、制服姿でじゃれている女の子達が、楽しそうな声を上げている。見慣れた空座町の風景。そこに私は今、猿柿副隊長と2人で腰を下ろしていた。私をここに誘った猿柿副隊長は、両足を投げ出して後ろに手をつき、無言で空を見上げている。私は両膝をやんわり抱え、無言で川面を見つめている。傍らに置いたレジ袋が、風が吹く度にカサカサと音を立てる。その音が聞こえる度、私は喜助君を思い出していた。 「…今日、夕飯、何にすんねん」 不意に猿柿副隊長が言った。私は少し驚いて猿柿副隊長の方を見た後、またすぐに顔の向きを川面の方に戻し、カレーです、と小さな声で言った。こんなびくびくした態度では、また怒られてしまうと知りながらも、私の声はどうしても弱々しいものになってしまうのだった。猿柿副隊長は空を見たまま私を一瞥もせず、鼻で笑った。 「お前ら2人でカレーかい。えらい平和な暮らししとんのォ」 その台詞には全面的に刺々しさが表れていて、思わず耳を塞ぎたくなってしまう程。どうして猿柿副隊長は私をここに誘ったのだろう。きっと何か話すことがあるんだろうと思って付いてきたのに、ここに来てからもう1時間、猿柿副隊長は何も喋らない。まさか今晩の献立を聞く為に来たんじゃないだろうに。 抱えた膝に思わず顔を押し当ててしまう。涙こそ出ないものの、もうそれは泣きたくなるほど、居心地が悪かった。猿柿副隊長の言葉が刺々しいというのもあるけれど、それ以外の理由で、猿柿副隊長の傍にいるのはとても辛かった。猿柿副隊長は、今何を考えているのだろう。暮れゆく空に、何を思っているのだろう。私に腹を立てているのだろうか。何か言葉を選んでいるのだろうか。それとも、思い出しているのだろうか。それら私の考えは、どれも間違っているような気がした。でも当たっているような気もした。結局、直接的な言葉を介さないと、猿柿副隊長の考えが何も分からなくなるほど、私たちの間には年月が経ってしまっているということなのだ。 隣で猿柿副隊長が少し動く気配がした。それに気付き私もゆっくり顔を上げると、猿柿副隊長は空を見ることをやめて、私の方に顔を向けていた。目つきは鋭いままだけれど、さっきまでの刺々しい雰囲気は少し和らいでいるように見えた。 「」 「…はい」 「いつからうちの、元隊長と一緒に住んどるんや」 「……私が現世に来た時からです」 「…そうか。……しょうもないこと、聞くようやけど、」 そこで猿柿副隊長は一旦言葉を止めた。その目には明らかに迷いとか躊躇いとか、そういう類のものが揺れていた。私はぐっと胸が詰まる思いがした。 「お前らは、男と女の関係や、っちゅうことやんな?」 まさかそんなことを聞かれるとは思ってもみなかったから、私は思わず目を丸くして猿柿副隊長を見てしまった。でもそこにいた猿柿副隊長は、酷く複雑そうな顔をしていた。何の冗談でも冷やかしでもない質問なのだということが分かった。だから私も目を逸らさないで頷いた。その質問の意図するところが分からなくて、そうすることしか出来なかったともいえる。 「…まあ、一緒に住んどるんやからな。当たり前か」 猿柿副隊長はそう言ってちょっと笑った。私の傍らで、レジ袋が、またカサカサと揺れた。 私たちが、まだ死神だった頃。 あの頃の尸魂界は平穏で、私たちは大抵の日々を、笑って過ごすことが出来ていた。悲しいことや辛いことも勿論それなりにはあったけれど、今となってはそれらが何であったか特に思い出せないので、大したことではなかったのだろう。 私は二番隊・隠密機動の所属だった。本当は四番隊のような、比較的争いごとの少ない隊が良かったのだけれど、何故だか護廷隊に入った時からずっと二番隊だった。それは私が小柄な体型で隠密活動に都合の良かったことや、剣術よりも鬼道が得意だったことなどが理由だと思う。隠密機動に在籍してはいたものの、私はどちらかというと、現場での活動よりも執務室での書類処理の方が好きだったし、それを汲み取ってくれた四楓院隊長も、私にそういう仕事を回してくれることが多かった。隠密機動の仕事はあまり好きではなかったけれど、四楓院隊長のことは尊敬していた。 当時私は、三席だった喜助君のことが苦手だった。喜助君は飄々としすぎていて、感情が読めなくて、どこまで本気でどこまで冗談なのかを見定めるのが難しかったから。それなのに実力は確かすぎる程確かで、恐ろしいほど強いという話も聞いていた。だからどんなに喜助君が、サンサンと優しく声をかけてくれても、私はいつも彼に対して距離を置いていた。現世に来てから喜助君は当時のことを、「いつも全然相手にしてくれなくて、悲しかったんスよ」なんて笑いながら言っていたっけ。 私は死神の仕事にやりがいを感じていたし、仲の良い友人も、尊敬できる上司も、かわいい部下もいた。だから特に何かが欲しいとか、何かが足りないとか、そういうことを感じたことはなかった。今のままでいい、と思うことすら無いほどだった。平凡であることが一番いいというのを、私は心の底から信じていた。 真子と出会い、恋に落ちるまでは。 「もうこんな時間や」 その言葉に、はっと意識が呼び戻される。辺りはすっかり陽が暮れて、河川敷で遊んでいた子ども達はもうどこかへ行ってしまっていた。川面は水の音だけを残し、薄闇に消えている。 「カレー作るんやったな。えらい長いこと引き止めてしもた」 猿柿副隊長はそう言うと立ち上がり、自分の服に付いた草を払った。私も続いて立ち上がる。足元でレジ袋が音を立てたので、それも手に持った。ずしりと手に響く重みが、家で待っているであろう喜助君の姿を思い起こさせる。買い物に出ると言って、もう何時間が経っただろう。心配してやいないだろうか。お腹を空かせていないだろうか。私は早く帰りたくなって、レジ袋を持つ手に力を込めた。 「あの、猿柿副隊長」 「だから副隊長や無い言うとるやんけ」 「はい、あの、私…、帰りますね」 「…おう。そうしィ」 待たせとんのやろ、と猿柿副隊長は言った。 私はぺこりと頭を下げると、そこに猿柿副隊長を残し、先に道路に上がった。 「!」 河川敷の方から名前を呼ばれたのでそちらを見る。猿柿副隊長もこちらを見ていた。 「お前、もう、…真子のことは、忘れてしもたんか…?」 ばきん、と胸が音を立てた気がした。 きっと今の台詞が、今日、一番言いたかったことなのだろう。猿柿副隊長の顔を見れば、それはすぐに分かる。ずっとそのことを言うために、ここに居たんだろう。彼の名前を出すか出さまいか、ずっと迷っていたんだろう。 私は少し間を置いて、息を吸った。そして答えようとしたのだけれど、どうにも胸が詰まって言えなかった。代わりに笑顔を取り繕ってみせた。取り繕った、と書いてあるような笑顔だったと思う。それでも、それしかできなかった。 猿柿副隊長に再び一礼をし、私は走り出した。早く帰らないと、夜が来て、もう何も見えなくなってしまう気がした。右手に持ったレジ袋が、がさがさと、喧しく音を立てていた。 |