9. 雨 は 正 直 立ち込める雨雲に比例するように、俺のプライベートは悪化の兆しを見せていた。遠征中に連絡を取らなかったことを詰る年下の恋人は今にも泣き出しそうで、俺は、泣き出してしまった後の対処を先に考えている。ボーダーに所属していることを知ってはいても、理解できるわけではない。恋人と連絡を取ることよりボーダーの業務を優先してしまう俺は、きっと彼女の求めるような男ではないのだろう。そう気付いたというなら、出来るだけ冷静に振ってくれればいい。俺は目の前の恋人に縋るつもりはさらさらなかった。 彼女の両目から、ゆるやかに涙が溢れ出す。化粧で囲んだ目元を擦らないまま、鼻先を赤くしている姿は、いたいけな子供のように見えた。俺は何でこの子と付き合うことにしたんだったか。いつかの飲み会で知り合って、明らかに好意を向けられたから、有り難く受け取った。彼女の何かに惹きつけられた、というわけではなかった。顔も性格も可愛らしい女の子ではあるのだが、どうしてなのか、大事にしてやれなかった。申し訳ないとは思う。 「・・・じゃあ、俺たち別れるか」 別れに向けて彼女が紡ぐ鬱々としたスピーチを断ち切って、俺はそう口にした。見開かれた目から無遠慮な涙がぼろぼろこぼれる。女って不思議だな。短期間の付き合いで、しかも大して優しくもないこんな男と別れる時でさえ、惜しみなく涙を流すのだから。そう感心する気持ちの裏側で、また俺のずる賢い部分が働き始める。この場を出来る限りスムーズに切り抜けたい。俺にとっては、別れ話ほど、無駄に体力を消耗するものはないのだ。 振ったとか振られたとか、どっちに主導権があったとか、そういうのはどっちでもいい。どちらか一方の行動だけが別れの引き金になるわけではない。世の中の多くの恋愛は常に終わりに向かって進んでいるわけだから、その瞬間が遅いか早いかだけの違いなのだと俺は思う。スマートフォンの中から、ひとりの女の名前を削除する。『本当に削除しますか?』という無機質なメッセージに、感傷めいたものを覚えることもなかった。 「太刀川さん、意外とマメっすよね」 別れと同時に行われる俺の習慣について、出水は呆れたようにそう言った。 「おれだったら、とりあえず連絡先は残しときますけどね。何があるか分かんねえし」 「何があるっていうんだよ。あるのはお前の未練だけだろ」 「いやー、未練ってわけじゃないですけど」 甘ったるいジュースのストローを噛んでいる部下は、淡白なようでいて意外と女から人気のある男だった。中学の頃から付き合っている同級生の恋人がいるというのに、最近、他校の女からも言い寄られているらしい。そういう女たちをあからさまに嫌がることをせず適当に相手をしている様子は、俺より悪い男のように思う。 「そういや太刀川さん、今日、迅さんと模擬戦の約束でもしてたんですか?」 「いや?してねえけど。迅、本部に来てんのか?」 「さっきラウンジにいましたよ。さんと一緒に」 特別大きな任務を控えているわけでもない今、迅が本部に来る理由なんて無いはずだ。それなのに本部でと共にいるということは、おそらくが呼び出したのだろう。とうとう迅に頼るようになったのか。ふと、結婚式の写真を思いだす。 「今まであんまり考えたことなかったんですけど、迅さんとさんってお似合いじゃないですか?ラウンジでお茶飲んでるだけなのに、何か絵になってて」 何かを思い浮かべるように目線を斜め上にやっている出水は、ただの好奇心に浮かれている少年そのものだった。結婚式の写真を見て俺が感じたことは、俺一人の感想ではないらしい。出水はにやにやと口角を上げている。 「・・・そういやお前、のこと可愛いとかって言ってたな」 「そんなのおれだけじゃないっすよ。おれらからしたら、憧れのオネーサンですもん」 ボーダー内では古株だが、特に功績をあげているわけでもないは、憧れられる隊員というほどではない。しかしこうやって若い男を喜ばせるくらいのことはお手の物なのだろう。本人が意図しているかは別として。俺は溜息をついた。 「で、その憧れのオネーサンと迅はラウンジにいたんだったか?」 「太刀川さんが来る前なんで、今もいるかは分かりませんけど」 出水はもう迅たちのことにはほとんど興味がないようで、国近が放ったらかしているゲーム機に手を伸ばした。俺もそのままゲームに興じてもよかったが、ラウンジに向かうことにした。俺の忠告を聞き流しているらしいに、一言言ってやらなければならない。 迅とはすぐに見つかった。ラウンジに向かう途中で、廊下の先から二人が歩いてきたのだ。けたけたと笑い声をあげているの横で、迅が先に俺に気が付いた。 「あ、太刀川さん」 その声に、ぱっとが俺の方を見る。 「よう、迅。珍しいな、本部に来るなんて」 気まずそうなを無視してそう言うと、迅は朗らかに微笑んだ。腹に一物あるときの顔だが、サイドエフェクトと無縁の俺にはその一物が何かは分からない。 「太刀川さんこそ今日は非番でしょ?」 「あー、まあな」 同じく非番のは、俺と迅のやり取りに巻き込まれないように目を逸らしている。ベージュのニットワンピースの袖口を指先でつまみながら。そういえば今日、は大学に来ていなかった。天気が悪いからどうせ家でごろごろしているのだろうと思っていたのだが、まさかこうして用もないのに本部に来ていたとは。 「、お前は何で本部にいるんだよ」 「べ、別にいいじゃん」 ごまかすのが下手な奴だ。憧れのオネーサンが聞いて呆れる。 「どうせ彼氏もいねえし暇なんだろ。この暇人」 バンドマンの彼氏に未練があるわけではないのだろうが、恋愛体質のにとって、男がいない状態が続くのは好ましくないのだろう。それならもっと大事にしてやればいいのに。そうすればそれなりに幸せな生活を送れるだろうに、そうできないのはの欠点だ。そして俺にも通ずるところがあることは自覚している。 「太刀川さん、これから時間ある?」 「お、模擬戦か?」 「いや、おれ急用思い出したから、さんと飯でも行ってくればーと思って」 迅がの肩に軽く手を置く。は驚いたように迅を見上げた。 「えっ、迅くん、何で」 「ごめん、おれ本当に急用なんだ。ごめんさん、また今度」 がうろたえて何か口にするより前に、迅は颯爽とその場から立ち去った。しんとした廊下に、俺とが残される。突然の展開についていけていないは目を丸くしたままだ。おそらくこのあと二人で食事に行く予定だったのだろう。 「振られたな、お前」 肘でつつきながらそう言うと、は露骨に眉尻を下げた。おいおい、本気で振られたような顔をするなよ。 「・・・今日、うちでお鍋でもしようって話になってたの」 「は?お前の家で?迅と二人で?」 小さな頭がこくりと頷く。迅のことだから、女の家に行くことに邪な思いはなかったのかもしれないが、目の前の女はそうじゃない。それを察して、今この場で逃げ出したのだろうか。サイドエフェクトで何かが視えた、とか。そうだとしたら、本当にまともに振られている。馬鹿げた茶番だ。 「何でまた・・・、何で迅なんだよ」 「太刀川だって言ってたじゃん、お似合いなんじゃないかって」 「そりゃ言ったけど」 振られるのは目に見えているだろう。確かにお似合いだとも言ったが、迅の手には余るとも言ったはずだ。何でこいつはこんなに馬鹿なんだろう。俺が言えた義理ではないのは重々承知だが、男なら誰でもいいのか。 呆れてものも言えなくなった俺は、無言で歩き出す。少しして、ヒールの音が追いかけてきた。そのまま一歩後ろを黙って歩いているは、きっとしょぼくれた顔をしている。見なくても分かる。俺に呆れられたことではなく、迅に反故にされた約束を思って、肩を落としている。お前がそこらへんにいる普通の女みたいな素振りをするな。そうやって何度も他の男をぞんざいにしてきた奴が。 「・・・太刀川、うちに来る?」 この提案が例えば以外の女から差し出されたものであったなら、二つ返事で乗っていた。しかし俺は迅ではないので、邪な計画抜きに女の家に上がることはできない。それが例えであっても、だ。俺はの一人暮らしのマンションに行ったことはない。どんな部屋なのかは知らないが、シングルベッドが一つあるのであろうワンルームで、二人で鍋を食って、そのままサヨナラなんて、出来るわけがない。俺は男で、は女なのだ。そしては俺にとって、なぜかその流れを許せる女ではなかった。だから頷くことはできなかった。 「・・・行かねえよ。暇ならラーメンぐらいは行ってやるけど」 「ラーメンか・・・。まあ、それでもいいか」 「どれだけ暇なんだよ」 後ろで小さく笑い声がした。 の『暇』は、『寂しい』と同義語だ。ボーダーにも大学にも友人関係の中にも、それぞれきちんと居場所を作っているくせに、何でこんなにも不安定なのか、俺にはさっぱり分からない。男がいないと生きていけない女。安っぽい人生だと、思いはしないのだろうか。恋愛において俺とはよく似ているとは思うが、俺は女がいないと生きていけない男ではない。だからこそこうやって、迅のような近しい存在にも簡単に女の部分を見せようとするに、腹が立つのかもしれない。 外に出ると雨が降っていて、の折りたたみ傘に二人で入った。夕刻に別れてきた女のことを思い出す。彼女はのようなタイプではなく、一途で純朴なにおいのする子だった。付き合い始めてすぐ俺が体を求めたことに、露骨に嫌な顔をするような。その時は面倒くさいな、と思ったが、それが普通の反応なんだろう。きちんと自分の体と意思にプライドがある。 隣を歩くはすっかり気を取り直したようで、スマートフォンでこの辺のラーメン屋を検索していた。例えばだったら、付き合い始めたその日に体を求められた場合、どうするのだろう。あっさり受け入れてしまう気がする。何のためらいもなく。もしかしたら付き合っていない男にだって、好きだと言われれば、許してしまうかもしれない。 俺の脳内でどんどん尻軽女に仕立て上げられているは、「醤油かとんこつ、どっちがいい?」と俯いたまま声をかけてくる。「どっちでも」と答えると、「どっちでもかあ」と困ったような呟きが漏れた。の方に傾けている傘の先から、雨粒が絶えず落ちている。俺の右肩は濡れていた。こんな小さな折りたたみ傘では、俺たち二人は上手く収まることができない。 |