5. ハ ウ ・ ト ゥ ・ リ ス タ ー ト



恋人は自嘲的な笑みを浮かべながら、ふっと煙草の煙を吐き出した。白い煙は細く静かに消えていく。この恋のラストシーンは大学近くの小さなカフェ。半ば強引にここに呼び出されたときから、別れ話になるのだろうとは分かっていた。大学生同士のカップルが何日も連絡を取らなければ、こういう結末になるのは当然だ。恋愛の終わりは何度も経験してきたけれど、いつも体が落ち着かない。結論は、彼の中にも私の中にももう出ているのに、お互いに何かを隠しながら、気遣いながら、どこかで習った科白をやり取りする。嫌なエネルギーを要する作業だ。
「オレのこと、もう嫌いになったんだろ?」
「・・・嫌いになったとかじゃないよ」
「じゃあ何で、」
そこまで言って彼は俯いた。これ以上の言葉を続けるべきか迷っているのだろう。きっと、私に対して言いたいことは山ほどあるだろう。でもどれを言ったって、何も変わらないことを、彼も私も分かっている。ただ気持ちの整理のために今この時間があるのなら、良いように使ってくれればいい。きっとそれもまた必要な時間なのだろうから。そしてこれからまた1つ2つ恋をすれば、彼の中に私はいなくなるのだろうから。
「・・・ごめん。オレ達、やっぱりどう考えても、もう無理だよな」
最後のコーヒー代は彼が支払ってくれた。店を出ると、彼は伸びた前髪をかきあげて「また飯でも行こう、友達として」と言った。私も頷いた。別れ際の言葉にはマニュアルでもあるのだろうか。恋人だった男と女が、友達なんかになれるわけないのに。傷つけ合いたくない私たちは、人生で何度もこの言葉を口にする。

別れ話をしたその足で本部基地に向かい、作戦室に入るやいなや、すぐトリオン体に換装した。先にソファでくつろいでいたチームメイトが、意外そうな顔で私を見上げる。
さん、今日は珍しくやる気ですね?」
「うーん。ねえ、暇なら模擬戦つきあってよ」
「え〜、何か怖いな。首吹っ飛ばされそう」
そんなつもりはなかったのに、そう言われると、そうしてあげたくなってしまう。私は自分でも分かるくらいの嫌な笑みを浮かべて、渋るチームメイトと模擬戦に興じた。
我ながら性格が悪いとは思う。しかし、私は精神的に少々荒れているときの方が、戦績が良い。恋人との別れから1時間後というある意味最高のコンディションだった私は、一方的に白星を奪い続けた。根気よく付き合ってくれたチームメイトには感謝しかない。

「本当、容赦ないですよねー。大人気ないですよ、さん」
すっかり疲れた様子のチームメイトに、ラウンジでチョコレートパフェをごちそうした。甘いものが大好きな彼は、文句を言いながらもご機嫌だ。彼も多くのボーダー隊員と同じく、大人びた少年だけれど、こうやって休みなくスプーンを動かす様子は大変かわいらしい。
「ごめんごめん。今日は力があり余っててさ」
さんらしくないですね。いつも省エネ型なのに」
「電化製品みたいに言わないでよ」
私たちは声を上げて笑った。何の他意もなく楽しく笑いあえる相手は尊い。何があっても失いたくない存在だと思った。
「でも本当、何かすっきりした。ありがとう」
改めて礼を言うと、彼はにっこりと笑った。
「それならよかった。嫌なことでもあったんだろうなと思ってたんで」
ボーダーの子たちが大人っぽいと感じるのは、例えば、こういうさりげない気遣いに触れたとき。彼らは、他人の心や事情を慮る術に長けている。異世界のものと戦う強さの中に、透明な繊細さがある。だから私はトリオン生成のピークを過ぎた今でもここにいるのかもしれない。そんな彼らを、いつでも守ってあげられるように。
彼はテーブルに置いてあったスマートフォンの時刻を確認し、思い出したように言った。
「今日、東さんと太刀川さんに夕飯誘われてるんですよ。さんも一緒に行きません?」
彼との居心地の良さを愛するのは私だけではないらしい。しかし私は少し考えるふりをしてから、首を横に振った。さすがに今日は疲れている。
「ごめん、今日は家でゆっくりしようかな。東さんたちによろしく言っといて」
「わかりました」
にっこりと微笑んだ彼はそれ以上何も言わなかった。染み入るような優しさに、心がほどけそうになる。

その夜、ベッドに入りかけた頃合に、太刀川から電話があった。
アルコールが入っているのか、太刀川の声は普段より少し明るかった。後ろで車の音がしている。食事のあとの帰り道だろうか。
「今、家か?何で今日来なかったんだよ?」
「え?」
「俺、お前に声かけるように言ってあったんだけど。誘われただろ?」
微笑むチームメイトの姿を思い出す。「一緒に行きません?」と、まるで彼自身の提案のような言い方だったから、あっさり断ってしまったのに。まさか先輩である太刀川から、私を誘うように言われていたとは。もしそう言ってくれていたら、かわいいチームメイトをいびらせるわけにもいかないから、私は誘いに乗っていた。きっと彼は、私が断りやすいように、言い回しに気を遣ってくれたのだろう。じんわりと胸が熱くなった。
「ああ・・・ごめん。ちゃんと誘ってくれたんだけど、今日はちょっと飲みに行ったりする気分じゃなくてさ」
私が言うと、太刀川は暫く沈黙して、「はー、なるほど」と呟いた。
「さてはお前、別れたんだろ。バンドマンの彼氏と」
「・・・鋭いね」
太刀川は面白そうに声を上げて笑った。恋人と別れたということで、なぜ笑われなければならないのだろう。深く傷ついているわけではないにしろ、それなりに落ち込んではいるのに。
「お前な、そんなだから『恋多き女』って言われるんだぞ」
「何それ・・・初めて聞いたけど、私ってそんなキャラなの?」
「どう考えたってそうだろ」
思わず溜息が漏れた。自分に『恋多き女』というラベルを貼るには、あまりにも色気が足りなすぎる。そんな小洒落た言葉が似合うのは、映画の中のオードリー・ヘプバーンのような女性だけだ。頭の中で、有名な古い映画の冒頭シーンがリプレイされる。
「・・・まあ、そんなわけで、今日は早く寝るつもりなの」
「はいはい、おやすみ。あ、そうだお前、週末空けといて」
唐突な提案に、見えもしないのに眉をひそめる。
「俺、再来週の結婚式、行けねえからさ。何かプレゼントでも準備しようかと思って。一緒に見にいこうぜ」
その結婚式というのはボーダーの職員同士のもので、入隊したときからお世話になっていた私と太刀川は、結婚式にも招待されていた。ただ、1年前から決まっていたその結婚式の日取りが、次回の近界遠征と重なってしまったのだ。
「OK、わかった。じゃあまた詳しいことは連絡して」
そう言って電話を切った。太刀川は終始機嫌が良かった。

柔らかい枕に頭を預けて、目を閉じる。瞼の裏がきらきらと光って、やがて消えて、そのまま何の夢を見ることもなく、私は眠った。失恋した日のはずなのに、ここ最近では一番よく眠れた夜だった。