2. お 化 け で も い い



人生で初めて金縛りに遭った。
目は覚めているのに、声が出ない。指先さえも動かせない。幸い、足元に幽霊がいたとか、見えない誰かの声が聞こえたとか、そういったことはなかった。だけど暫くしてふと体が緩められたときには、全身に冷たい汗をかいていた。

一人暮らしは自由で気楽で捨てがたい。しかし、こんな朝はどうにももどかしい。熱めのシャワーを浴びて、天気予報の画面を眺めながら、「昨日初めて金縛りに遭ったんだけど」と話しかけたくてたまらない。
同じく一人暮らしをしている友人たちの中には、毎日のように彼氏が入り浸っているという子もいる。しかし私自身はそれを望んでいなかった。会えたり会えなかったりするから、ちょうどよく好きでいられる。金縛りのことをすぐ誰かに話せないのは残念だけれど、たったそれだけのこと。・・・なんてことを恋人の前で口にしてしまったら、冷たい女だ、と言われてしまうだろう。色違いで買った2つのマグカップは、赤色の方ばかりが使われて、青色の方はもうずっと食器棚に伏せられたままだ。

大学直通のバスに揺られながらも、頭の中は金縛りのことでいっぱいだった。心霊現象ではないというのは分かっているものの、あの何ともいえない恐ろしさと緊張感は、確かに人に幽霊の存在を感じさせるものではある。ああ誰かに言いたい。分かってほしい。人生で初めて味わったあの感覚を、共有したい。
大学の1つ手前の停留所でバスが停まる。普段ならここから乗ってくる人はほとんどいないが、雨の日だけは必ず乗ってくる知り合いがいる。
「よう」
右手にキャリングケース、左手にビニール傘を持った太刀川が、座っている私の前に立った。起きたばかりなのか、まだ瞼が重そうである。1限から授業があるのは1週間の中で今日だけなので、太刀川にとってはがんばって早起きをしたのだろう。実際、起きられずにそのまま欠席、という日も多い。ただ、そのせいで欠席がかさみ、もうこれ以上この授業を休むことは出来ない状況にまで陥っている。忍田本部長が知ったらさぞお怒りになられそうな話だ。
「おはよ。眠そうだね」
人の多い車内ではそれ以上の会話は交わさなかった。ただ私にはとっておきの話題がある。バスを降りて教室に向かう道すがら、早速口を開いた。
「あのさ太刀川、金縛りに遭ったことある?」
「無いな」
「あ、そう。実は私、昨日初めて金縛りに遭ったんだよね」
「へー。髪の長い女がちゃんと首絞めてくれたか?」
太刀川は金縛りという現象にはさほど興味がないらしい。ただ、私の相手をすることに慣れているからなのか、こうやって私の気が済むように適当にコメントするのが上手い。思うように扱われることは不本意ではあるけれど、心地よさが介在しているのも確かだ。
「それが首は絞められてないんだけど・・・、足首を握られたの。で、その足首にね、今もその跡が残ってるのよ」
「は?マジ?」
太刀川が私の足元に目線をやったのが分かった。しかし私は今日スキニージーンズを穿いているので、たとえ肌に何かの跡が残っていたとしても見ることは出来ない。
「見られたくないから、今日はデニムにしたの」
「お前、それマジで言ってるか?絶対勘違いだぞ。そもそも金縛りってのはな、」
急にテンションの上がった様子で、太刀川は金縛りについて知っていることを喋り始めた。疲れているとなりやすいだとか、興奮しているときになるのだとか、幽霊が見えるといわれるのは夢と現実を混合しているせいだとか。私はそれらの内容をほとんど聞き流しながら、満足感を味わっていた。自分の身に起きたことについて、他人がこうやって熱を上げてくれるのは、気持ちの良いことだ。私の足首のありもしない痣について、太刀川が訝しげに首を傾げている。太刀川は、本質的にはバカではないと思う。それなのに周囲から軽んじられがちなのは、こういう妙な信じやすさのせいなのかもしれない。
「じゃあ、足首の痣は本部で見せるね。今日防衛任務でしょ?」
話を変えると、太刀川もそれ以上は金縛りについて話すのをやめ、「ああ」と答えた。
「雨がだるいな。夜まで降るのか?今日」
「どうだろう、天気予報見てきたのに忘れちゃった」

さて教室に入ろうかというタイミングで、「太刀川さん」と後ろから声が掛かった。一緒に振り返ると、そこに立っていたのは可愛らしい華奢な女の子。水色のワンピースに高いヒール、胸元まである髪にはこの天気だというのにきれいにカールがかかっている。私たちより少し歳下だろうか。誰だっけ、と思いを巡らせるより先に、太刀川がその子の名前を呼んだ。
「どうした?文学部もこの建物で授業?」
知らない名前だった。でも、太刀川の声色と彼女の表情で、二人の関係性はすぐに察しがついた。太刀川の新しい彼女だ。
「授業は無いんですけど・・・なんとなく来てみたら、太刀川さんがいたので」
彼女はそう言って私の方をちらりと見た。あ、まずい。太刀川もそう感じたのだろう、私の方を親指で指して、「こいつ、ボーダーの知り合い」とすぐに私を紹介した。私は得意の社交辞令の笑顔を作って、「すごい、かわいい子だね」と言った。今まで何回この科白を口にしてきたか分からない。しかしそんなことを知る由もない彼女は、顔の前で手をひらひらさせて謙遜の言葉を口にした。幾度となく繰り返されてきたやりとり。もはや茶番だ。もしこれが映画のワンシーンだったら、このシーンに限り私は女優賞を獲ることができると思う。
「私、先に座っとくからね」
そう言って先に入った教室は、後方の席がほぼ埋まっていた。仕方なく前から3列目の端に1人で腰を下ろし、テキストを机に出す。ついでに朝からチェックしていなかったスマートフォンを開いた。画面には、恋人の名前と共に『新着メッセージがあります』という通知が表示されていたが、私はそれを開くことなく、そのままバッグの中にしまった。