喜助君を責めるわけにはいかなかった。あの晩、あんな風に私を扱った喜助君は、やっぱりそれきり私に触れなくなった。夏祭りの夜といい、あの夜といい、どうしてあんなことになってしまったのか。それでも喜助君の傷を思うと、私は責めるどころか、泣いて謝りたい位の気持ちになるのだった。どうしてあんなことに、なんて、私も喜助君も、ちゃんと分かっているのだから。 花 葬 … story 7 数日前に、ハンバーグが食べたいッスね、と何気なく言っていた喜助君の言葉を思い出して、私はハンバーグを作っていた。あの人の夢を見た夜から、今日でちょうど1週間が経つ。私と喜助君はあれ以来、2人揃って何事も無かったかのように振舞っている。 私たちには共通する欠点があって、それは、お互い決してぶつかろうとしない所。いつも良い感情しか見せ合おうとしない。自分を装っているわけではない。ただ、ぶつかるのを恐れているだけ。それでもそうやって上手くやってきたから、問題は無いのだと思っていた。だけどここにきて、それじゃ駄目なんだな、ということにようやく気付いた。なぜならそうやって築いてきた私たちの関係には、水に溶けそうなほど脆い足場しか存在していなかったのだ。 私はハンバーグのたねを捏ねながら、居間にいる喜助君のことを考えてみる。喜助君がああやって乱雑に私を抱いたことは、きっと喜助君のぶつかり方だったんだと思う。それなのに私は、それを受け止めるだけで精一杯で、自分からは何もぶつかろうとしなかった。あの時、あの人の名前をきちんと口に出していれば、何かが変わっていたんだろうか。 その時、浦原商店に来客を告げるチャイムが鳴った。もともと来客の少ない店なのに、閉店後の午後7時なんて時間に人が来るなんてことはもっと珍しい。手を洗い台所を出ようとすると、先に居間から出てきていた喜助君と廊下で鉢合わせた。 「ボクが出ますから」 喜助君が優しくそう言ったので、私も黙って頷き、再び台所に戻った。普段通りのつもりなのに、どうしても拭いきれない違和感が私たちの間にはあって、それはこんな風に予期せぬ会話を交わす時に表れる。まいったなあ、と思いながら、私は再びハンバーグの前に立った。この違和感を取り去るためには、どうすればいいのかな。 すると、台所の入り口から、サン、と名前を呼ばれた。振り返れば来客の相手をしに行った筈の喜助君がそこに立っていた。 「サン、お客様がお見えッスよ」 「え、お客さん?…私に?」 「ハイ。ハンバーグの続きはボクがしますから」 どうぞごゆっくり。 喜助君はそう付け足すと、やんわり私を台所から追い出して、その扉をピシャリと閉めてしまった。いつになく冷たい態度が、ちくりと胸を刺した。 私は店の扉の前まで来ると、少し身構えた状態で、そっと扉を開けてみた。しかし扉の向こうに人気はない。不審に思い扉を完全に開けてみても、やはりそこには誰もいなかった。まさかほんの短い時間を待たせただけで帰ってしまったのだろうか?誰かも分からないお客さんに苛立ちを覚えながら、私は店の外に出た。遠くの方から子どもの声が聞こえる。そして隣の家から、晩ご飯の良い匂い。その匂いで私はお客さんのことなどどうでもよくなって、ハンバーグを完成させようと店の中に戻ろうとした。その時だった。 「あー、待て待て」 どこか高いところから、声がした。低いけれど丸みのある優しい声。独特のイントネーション。私は思わず息を呑む。だってこの声を、私はよく知っているから。声のした方を見ると、そこには電柱があり、その上まで視線を運べば、痩せた三日月を背負って立つ、1人の男の姿があった。 「元気そうやのォ、」 飄々と言ってのけた男は不敵に笑うと、ふわりと地面に下りてきた。コツ、と靴の先が音を立てる。細身のシャツにパンツ姿。肩上までのおかっぱ頭。記憶にある姿とは随分異なっているけれど、そこに居たのは、確かに、 「…し、んじ…?」 「ハハッ、なんで疑問系やねん」 「だって…、え、うそ、だって、どうして、」 言葉が出てこずうろたえる私を見て、真子は少しだけ、辛そうな笑い方をした。 「……お前の声聞くん、久しぶりや」 そう言うと、真子は軽く両腕を広げてみせた。それはいつか見たポーズ。しかも最近。そう、あの夢の中でも、真子はこんな風に腕を広げていた。その腕に引き寄せられるように私の足は勝手に真子の方へと向かう。距離が近付いたところで手を伸ばし、気付けば、その腕の中に収まっていた。痛い位に抱き締められて、ようやく頭が正常に動き出す。ここは浦原商店の目の前。家の中には喜助君。こんなことしていちゃいけない。そう思うのに、体が言うことをきかなかった。心と体は別物なんだなぁ、なんてことを、妙に冷静に思った。 真子の背中に腕を回して、顔を強く胸に押し付ける。華奢な見た目よりずっと男らしい真子の体。真子のにおい。私に触れる無骨な手。その何もかもが、私の細胞を震わせる。ねえ真子ねえ真子ねえ真子。伝えたいことが沢山ありすぎて、何一つ言葉にならないよ。それは真子も同じなのか、私を抱く腕に力を込めたまま、一言も喋らなかった。 「ねえ…もっと集中してよ」 閉め切った五番隊隊首室。 唇同士が離れた隙に私は言った。裸になって抱き合っているのに、真子は心ここにあらずといった感じで、長いキスさえも何だか形式的。だから私は首に回した腕に力を込め、責めるようにそう言ったのだった。 私は四楓院隊長に頼まれて書類を持ってきただけなのに、いつの間にかその固い机に組み敷かれていた。勤務時間中にこんなことをしてはいけない、それなのに、真子が妖艶に耳元で愛を囁くものだから、私もつい理性を手放してしまったのだ。最初は真子によって無理やり解かれた帯もすぐに自ら取り去って、死覇装を脱ぎ、体重をかけてくる真子の体に足を絡めた。すると真子は一度、強く長く私を抱き締め、少し間を開けてから、私の肌に触れ始めた。しかしその手はどこか焦っていて、本当の私をその目に映していないような感じがして、私は真子の手を取ると行為を中断させた。 「集中できないんなら、やめよ?ここ隊首室だし、第一勤務中だし」 「いや、すまんすまん。そんなんとちゃうねん」 「だって、今日だけじゃないよ?最近ずっとそんな感じ。いつも何か考え事してる」 私が言うと真子は苦笑し、触れるだけのキスをすると、脱ぎ捨てた死覇装を私に羽織らせた。 「せやな、の言う通りや。すまんな」 「謝らなくていいよ。…何か悩んでるんでしょ?」 「別に悩んでるっちゅうわけやない。ちっと、嫌ーな予感がしてな」 嫌な予感? 私がそう繰り返したのと、緊急招集を告げる鐘の音が轟いたのは、ほぼ同時だった。真子の顔つきが、一瞬で隊長の顔になる。 「すまん、行かなあかんみたいや」 「緊急招集って…何かあったってこと?」 「さあなァ。…まぁ、ええ予感はせえへんわな」 「そんな…。すぐ帰ってくるよね?」 部屋を出ようとしていた真子が、くるりと振り返る。少しだけ困ったような、それでも本当に優しい顔をしていた。 「…お前なァ、そんな顔して見んなや。後ろ髪引かれるやろが」 「…引いてるつもり、だもん」 「だーいじょうぶや。すぐ帰ってくるさかい、自分の隊舎戻っとき」 真子はそう言って隊首室を出て行った。 そしてそれきり、二度と帰ってこなかった。 あれから一体どれ位の年月が経ったのだろう。その間に本当に色々なことがあった。私自身も霊力を全て失ってしまう出来事があった。けれど四楓院隊長のおかげで、現世の喜助君の元に来ることができた。私は死神にはもう戻れないし霊力も持てないけれど、これからはこういう生き方をしていくんだな、と思っていた。 それでもいなくなってしまった真子のことを、忘れたわけではなかった。忘れられる筈もなかった。私たちは出会ってすぐ恋に落ちて、どんな時も一緒にいて、文字通り、狂おしい程に愛し合っていたのだ。愛しすぎて泣けてくるなんて感情、私は真子に出会うまで知らなかった。さよならも言わずにいなくなってしまった真子を、私はきっと、今日までずっと、愛していたし、待っていた。 真子の胸に顔を押し付けたまま、私はゆっくり息を吸い込んだ。長い長い時を越えて、ずっと欲しかったものが、今ここにある。そう考えるとどうしようもなく切なくて、涙が出そうになった。今のこの強烈な感情を、どうして言葉なんかにできるだろう。そんな、限られたものの中では、きっと表現しきれない。 私たちは長い間黙ったまま抱き合っていたのだけれど、暫くして、真子がそっと私の体を離した。肩に置かれた手が、少しだけ震えているようだ。そして真子は私の目を酷く優しい眼差しで見つめ、小さな声で言った。 「これ、夢とちゃうやんなあ?」 それを聞いた瞬間、愛しくて愛しくてたまらなくなって、私はもう一度真子を抱き締めた。夢じゃないよ、と言おうとしたのに、私の胸は痛い位にいっぱいで、もう何も言葉にできなかった。 |