猿柿副隊長に河川敷から投げかけられた言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
― もう、真子のことは忘れてしもたんか?
ねえ、あなたも、そう思っているの?




花 葬  … story 6






、おいで。
両手を軽く広げて、あの人がそう私を呼ぶ。金色の髪が風に揺れている。私が手を伸ばすと、あの人は私の手を引いて、そのまま胸の中に抱いてくれた。薄くて固いあの人の胸。肌に触れる着物の感触。、お前、今までどこにおったんや。少しおどけた口調でそう言うのを、胸の中で聞いた。声が直接体に響いて、ひどく安心する。私、どこにも行ってないよ、ずっとここに居たのに、いなくなったのは、あなたでしょう。そう口に出すと、あの人は小さく笑う。抱き締める腕の力が強まって、少しだけ苦しくなる。ねえ、息ができなくなっちゃうよ。私が言ってもその力は緩めてくれない。私はどこにも行かないよ。ねえ、だから、あなたも、どこにも、


「行かないで…っ!」


そう叫ぶ自分の声で目が覚めた。部屋は真っ暗だ。ゆっくり布団から体を起こすと、全身が冷たい位に汗をかいていた。夢の中の色彩が鮮やかすぎて、部屋の暗さがまるで本当の闇のように思える。そう、私は束の間の夢を見ていたのだ。色彩のコントラストの差が、まるで夢と現実の差そのものを表しているようで、頭を抱えたくなる。どうして、あんな夢を見てしまったのだろう。どうして今になって。抱き締められた感触が、生々しく自分の体に残っている。喉まで出掛かって、ついに言葉にはならなかった、あの人の名前が、頭の中で何度も再生される。それはまるで愛の言葉のように。


「…どうしたんスか?」


その声に驚いて振り返ると、部屋の引き戸の所に、喜助君がもたれかかるようにして立っていた。いつもの夜着姿で、そしていつもよりちょっとだけ優しげな表情で。何も悪いことはしていないのに、私は後ろ暗い気持ちでいっぱいになった。


「あ…ごめんね喜助君、起こしちゃった?」
「うなされてる声が、隣の部屋まで聞こえてきましたから」
「え、うそ、ごめんなさい」
「よっぽど嫌な夢でも見たんスか?」


喜助君はそう言うと、そっと両手で私の顔を挟んだ。そしてそのまま手を首筋に移動させると、すごい汗だ、と言い眉を顰めた。月明かりが微かに照らすその表情は、心の底から私のことを心配してくれているときの表情。そんな優しい目で私を見ないでほしい。だって私は、今さっきまで、違う男の夢を見ていたのだから。そんな優しい目を向けてもらえる資格は無い。


「ちょっと変な夢見ちゃっただけ。何でも無いの、本当に」
「…何でも無い、って顔してないッスけどねェ」
「ううん、平気。大丈夫よ」
「…どんな夢だったんスか?」


探るような喜助君の瞳から逃げるように、私は視線を逸らした。そして見てしまったあの夢を忘れようとした。まさかあんな夢、正直に話せるわけがない。しかしもともと嘘を吐くのは苦手な性分だ、ごまかす為の嘘も咄嗟には出てこない。私は暫く黙り込んだ後、小さな声で、「怖い夢じゃないから平気だよ」とだけ言った。隠し事を1つするのに、どうしてこんなにエネルギーが要るのだろう。


おそるおそる喜助君の表情を窺うと、喜助君は驚く程冷めた顔つきをしていて、私の心臓が嫌な音を立てた。喜助君は俯いて後頭部をがりがり掻くと、不意に真面目な目を私に向けてきた。射抜くようなその視線に、体が固まってしまう。


「どうしてそんなに、嘘吐くのが下手なんスかねェ…」
「え…?」


その時、喜助君が私の肩を掴んで、勢いよく私の体を布団に押し付けた。それと同時に、ぎりり、と手首に痛みが走る。閉じていた目を開けると、喜助君が私の手首を押さえつけて、私に覆い被さっていたのだった。僅かに差し込んでいた月の光が喜助君自身で遮られ、その表情はよく見えない。視界が本当に真っ暗だ。


「き、すけ君…?」


私の声は震えていた。恐怖もあった。だけどそれ以上に、嫌な予感があった。


「どうしたの、」
「ボクがあなたの嘘1つ、見抜けないとでも思いますか?」


喜助君はそう言うと、荒々しく私の唇を自身の唇で塞いだ。舌を絡め取られ、口の端からどちらのものか知れない唾液が零れ出る。息が出来なくなる寸前で唇が離れ一瞬だけ酸素が与えられると、再び歯列を割って舌が侵入してくる。息苦しさと混乱とで、閉じた瞼に生理的な涙が滲んだ。


掴まれていた両手首が頭上で一まとめにされると、喜助君の空いた片手が私の夜着の襟元を無理やり肌蹴させた。汗で冷たくなった肌に、僅かに温い喜助君の手が触れる。その手はそのまま私の身体のラインを辿って、胸の膨らみを揉みしだくように掴んだ。その痛みに思わず声が漏れる。けれどそんなことはお構いなしで、喜助君は私の胸の先端を指で軽く弾くと、啄ばむようにしながら口の中に含んだ。咥内に含まれたまま舌先で何度も触れられれば、私も自然と、嬌声を上げてしまう。身を捩ろうにも頭上で手首をまとめられているので、思うように身体を動かせない。じれったくて、声が余計に上ずってしまう。


「や…だ、喜助君、ちょっと、やめて、」


喜助君は私の夜着を完全に脱がせると、その帯で私の両手を縛った。今までされたことのないような乱雑な扱いに身が竦む。そのまま膝の裏に手を入れられることで、完全に身体を支配される感覚に陥った。喜助君は私の内腿に口付けると、その箇所を痛い位の強さで吸いあげる。何度かその行為を繰り返した後、喜助君自身も服を脱ぎ、私の膝を無理やり肩に抱えあげた。


「や、あ…っン!」


無理な体勢で、喜助君が私の中に侵入してくる。体が固いので普段ならこういう体勢は断るのだけれど、今夜はなぜだか断ることが出来なかった。たとえ断ったとしても喜助君は強行したと思うけど。喜助君の表情を窺い見たいのに、光の加減でよく分からない。


耐えるようにぎゅっと目を瞑ると、目の中で、さっき見たあの鮮やかな金色が揺れた。私の名前を優しく呼び、私の手を引いて、私の身体を力いっぱいに抱き締めてくれた、あの人の姿が、暗い視界を一気に極彩色に染め上げる。抱き締められたときに触れた着物の感触さえもが明確に蘇る。さっきは言葉にできなかったあの人の名前が、こだまする。


「…サン」


名前を呼ばれ目を開ければ、そこに居たのは喜助君。闇に慣れた視界が表情を捉え、喜助君が切なげに眉を寄せているのが分かる。律動は続いている。呼吸が乱れる。


サン、今、誰を見てますか?」
「…喜助君、だよ…?」
「…じゃァ、こうしたらどうッスか?」


そう言うと喜助君は私の両目を自分の手で覆った。視界は再び闇に戻され、闇に戻った視界は光を求める。そして浮かんだのは、やはり先ほどの、金色の髪だった。陽光を弾くでも吸収するでもない、陽光と共存しているあの金色。、と呼ぶ、彼の声。こびりついて離れない、あの人の姿が、閉ざされた視界の中で浮かび上がってくる。


脳内のあの人の面影を消し去るように、私は首を左右に振り、今私を抱く喜助君の手だけを感じようとする。それなのに、さっき見た夢がどんどん明確になっていく。こんな時に出てこないで。こんな時にまで、私を縛り付けないで。今私を抱いているのは、あの人ではない。あの人の手は、どこにもない。


「…喜助君、喜助君しか、見てない…っ!」


ほとんど叫び声に近い声だったと思う。滲んだ涙が喜助君の手を濡らして頬を伝う。この涙は、何の涙なのだろう。自分でも分からない。喜助君は律動を止めぬまま、私の言葉を遮るように唇を塞いだ。何もかも奪われそうなそのキスに、溢れる涙が勢いを増す。


ようやく唇が離された頃、私の目元を覆っていた手のひらも退かされた。濡れた視界の中で喜助君と目が合う。悲しげな、それでいていつになく鋭い目。胸の奥が、張り裂けそうな程に痛い。決して口には出さないけれど、心が強烈に、ごめんなさい、と叫ぶ。視界には喜助君しかいないのに、胸の中には、違う人がいる。


「狡い人ッスね、あなたは…」


複雑そうな表情を浮かべて喜助君はそう言うと、更に深く私を貫いてきた。その感触と、喜助君の体重を感じながら、私は再び目を閉じる。何も考えなくていいように目を閉じた筈なのに、閉じた視界の端から金色の髪が現れてしまうから、私は慌てて目を開ける。喜助君と目が合って、再びキスをすると、そのまま絶頂まで導かれた。





果てた後すぐに眠りについて、次に目が覚めた時はもう朝になっていた。脱がされた夜着は布団の外に放られたままだ。ふと痛みを感じて手首を見ると、私が身を捩り帯と擦れたことで出来た、赤い痣があった。全身が気だるい。昨夜のことを考えると、絶望感でいっぱいになった。


夏祭りの夜以来私に触れてこなかった喜助君が、久しぶりに触れてきたのが昨夜。そのきっかけは私が夢を見て叫び声を上げたことで、どんな夢を見たかは一言も言っていないのに、喜助君は夏祭りの夜以上に、荒々しく私を抱いた。どんな時も優しい喜助君があんな風に私に触れるのには違和感があったし悲しかったけれど、そんなことを言う権利は無かった。私は、喜助君に抱かれながら、別の男のことを考えていたのだから。


きっとそのことに、喜助君は気付いていたのだろう。私が喜助君ではない男のことを考えていたことに気付いていて、あんな抱き方をしたのだろう。そうだとしたら、きっと私以上に、喜助君は傷ついている。体の中心が、鋭く冷えてゆく。


私と喜助君が立っていたのは、もともと不安定な足場だったのだ。2人が目隠しをしていればそこは楽園だけれど、どちらか1人が目隠しを外せば、もうそこに楽園の面影は無い。今、2人が同時に目隠しを外そうとしている、そんな気がする。きっとこのままじゃ駄目だ。きっとこのままじゃ、喜助君も、私も、壊れてしまう。


ねえ、もう夢には出てこないで。そんな風に私を支配しないで。私、ちゃんとするから。