星の見えない夜空には、もくもくと雨雲が集まり始めている。そんな中、真子が倉庫を出ていくのを、ひよ里は倉庫の屋根から見下ろしていた。気だるげに歩く真子の行き先は、おそらくいつもの河川敷。ひよ里は盛大な舌打ちをし、踵を踏んづけていたスニーカーを履き直すと、真子の後を追うべく屋根を飛び降りた。 花 葬 … story 15 夏も終わり、秋が訪れようとしている。日の長さも香る風のにおいも変わった。それなのに、真子だけはひたすら100年前を生きているように見えた。こんなに弱々しい真子を見るのはひよ里も初めてで、だからこそ強く叱咤できないのかもしれなかった。100年前の事件の直後でさえも気丈に振舞っていた真子が、たった一人の女のことで、ここまで打ちのめされるのかと、驚かずにはいられない。 ひよ里は、ジャージのポケットに突っ込んだ手を握り締めた。恋も愛も、男も女も、自分の中の消化しきれない感情も、何もかも面倒だった。このまま0に戻れないだろうかと思う。0というのがどこなのか、何なのか、具体的には分からない。ただ、長い付き合いである筈の真子に、無言で背中を向けられることが、こんなに空しいことだとは知らなかったのだ。 河川敷まで辿り着くと、やはりいつもの位置に真子は立っていた。暗闇の中、真子の金髪だけが微かに明るく見える。ひよ里は暫しその後姿を黙って見ていたが、そのうちふと思いついたように踵を返し、来た道を戻り始めた。雨が降り出す前に真子を連れて帰ろうと思い、そのきっかけを手にするために、自動販売機に向かったのだ。 ここ最近、毎日のように河川敷で真子の背中を見つめているものの、うまく言葉を掛けることが出来ず、諦めてひよ里一人で倉庫に帰ることがほとんどだった。しかし今日こそは連れて帰りたい。そう思ったひよ里は、缶ジュースをその手段に選んだ。缶ジュースを買って行けば、それを手渡すという名目の下、自然に声をかけられると考えたのだ。 ポケットの中には丁度缶ジュース2本分の小銭が入っている。ひよ里は手の中で小銭同士をジャラジャラと鳴らしながら、1枚1枚、販売機の中へ入れていった。そして特に迷うことなく、赤いコーラのボタンを押した。コーラ2本、真子に話しかける為に必要なそれら。馬鹿馬鹿しいと思いつつも2本を手に取ったとき、ひよ里はふと、気配を感じて顔を上げた。 垂れ込める低気圧の気配が、じっとりと肌にまとわりつく。間もなく雨粒は落ちてくるだろう。そんな独特の空気の中、不健康な街灯の明かりに照らされて、こちらに向かって歩いてくる人物がいる。ひよ里はその小さな手でコーラの缶を握り締めた。ごくりと唾を飲んだ。俯き加減に頼りなく歩いてくるその人物が、それはもうよく知ったものだったからだ。 「…………」 ひよ里はぽつりと呟いた。少しずつ近付いてきていた人物は、自動販売機の光に反応して顔を上げる。そして、その前に立つひよ里に気付くと、足を止めた。 「……猿柿…副隊長」 そう言ってぎこちなく笑みを浮かべたのは、小さなバッグを携えただった。は身についたもののように丁寧なお辞儀をし、ひよ里を見つめる。見つめられたひよ里は両手のコーラを握り潰してしまいそうな程緊張していた。そしてそれは眉間の皺となって表れた。 ひよ里は確かに不器用だが、鈍感ではないし、まして馬鹿でもない。今目の前にが立っているということと、その表情が酷く切なげであるのを見れば、大方の想像はつく。自分が喜助に言った滅茶苦茶な台詞が現実になったのだと、直感的にひよ里は悟った。 「…一人でどこ行くねん」 思わず口をついて出たのはそんな台詞だった。声が掠れて、少し低く響いた。 「うちんとこの隊長はどないしてん」 今この瞬間に、に対する台詞としてもっと相応しいものはいくらでもあった筈だ。特に、あらましをほとんど分かっているひよ里なら、もっと適した言葉をかけられる筈だった。しかし如何せんひよ里は不器用な少女なのである。聞こうと思ったわけでもないのに、つい癖のように喜助の名前が出てきてしまう。 は困ったように手を口元にやりながら、少しの間考え込んだ。しかし幾度か瞬きをすると、まっすぐに顔を上げた。 「浦原隊長ならあの家にいますが、私は家を出てきました」 「出てきた、っちゅうのは…どういう意味や?」 「……もう戻ることは出来ないという意味になるかと」 そう言ったの顔は、自動販売機の明々とした光に照らされて、やけに生白く見えた。ひよ里は、なぜか妙にぼうっとする頭の中、綺麗な女やなぁとのことを思った。言葉を話す1つ1つの唇の動きにさえ、独特な美しさがある。あぁなるほど、と思う。の美しさは単なる外見のものだけではないのだろう。の絶対的な美しさは、きっと真子の知る美というものの全てなのだろう。だから、真子が100年以上も忘れられずにいるのだろう、と。 「もうすぐ、雨、降ってくんで。行く当ても無いくせに、傘持っとんのか?」 ひよ里が言うとは首を横に振った。それはそうだろう、が持っているのは、本当に手回りのものしか入らないような小さなバッグのみなのだから。ひよ里は両手に持っていたコーラを差し出した。 「これ使え」 「……コーラ…、ですか?」 「うちと真子の分やけど、うちの分はお前にやるわ」 ひよ里はの手にコーラを持たせた。 「真子やったら、向こうの河川敷でボーっとしとる」 「…え、あの、」 「ええから行け」 戸惑うを制するようにひよ里は言葉を重ねた。鋭い目の中に宿る柔らかな光が、まっすぐにを捉えていた。 「お前の幸せを望む奴がおるんやろ。…それを無下にしたら、罰当たりもええとこや」 最後の方はぼそぼそと尻すぼみになっていったが、ひよ里は何とかその台詞を言い終えた。コーラの名残で冷たくなった両手をポケットに突っ込む。こんなぶっきらぼうな言い方しかできない自分の未熟さ、それがきっと胸の中で呼吸するもどかしさの理由なのだとわかった。 自動販売機の明かりが、道の端まで2人の影を伸ばしている。そしてそのうちの1つが、ゆっくりと歩き出した。残った1つの影は、暫くして、立ち去る影に対して深々と腰を折った。 ◆ 足を一歩進める度に、心臓の温度が一度ずつ高まっていくようだった。手の中にあるコーラの冷たささえ感じられなくなる。なだらかな斜面になっている河川敷を少しずつ下っていきながら、私は密やかに深呼吸を繰り返した。雑草を踏み締める音は川の水音に消されているのか、真子が私に気付いている様子はない。 目の前にある金色の髪。もう少し足を進めれば、その髪筋に指先を通すことも出来るだろう。夢の中で何度も触れたその髪に、肌に、泣きそうな位焦がれたこの男に、私はようやく躊躇わずに手を伸ばすことが出来るのだ。胸の中で湧き上がる感情が、全身に巡って甘く痺れだす。猫背気味に川面を見ているこの後姿、もうそれだけで、愛しくて愛しくてたまらない。溢れ出そうになる涙を必死でこらえ、私は深く息を吸った。 「…………真子」 水音にかき消されそうな程小さい声になってしまったけれど、目の前の真子は勢いよく振り返った。その反応に私が驚いてしまう。 真子は半身を捻った状態のまま、暫く唖然とした様子で目を見開いていた。口が上手い筈の人の、絵に描いたような『言葉を失った』状態に、私は思わず笑ってしまう。目を細めた瞬間に、目尻に残っていた涙が一筋流れ出たけれど、それはこっそり手で拭った。暗闇のおかげで真子には気付かれていないようだった。 「え、…、お前…、何でこんなとこ、」 「何で、って」 真子の慌てた様子に、私は肩を竦めて笑った。 「ここに真子がいるからに決まってるじゃない」 すんなりと口から出た言葉は、本音というに相応しいものだった。そう、私は、真子のところに来たのだ。真子がいるからここに来た。長い長い時を越えて。 事態を飲み込めていないらしい真子に、私は一連の出来事を全て話した。時折、喉元に息苦しさを覚えながらも、ゆっくりと言葉を選んで。語ってみると、私が現世に来てからの日々はいかに喜助君に支えられて成り立っていたかということがよく分かった。喜助君の姿が思い出される度、視界はみるみる潤んだ。それでも目の前の真子が気長に優しく耳を傾けてくれるので、私は何とか、つい数時間前に喜助君とお別れをしたことまで話しきることが出来たのだった。 「……喜助君を裏切った私だけが幸せになるなんて…、って、すごく思った」 私が言うと、真子は眉間に皺を寄せて難しい顔をした。しかし私は微笑んで、その目を見つめた。 「でも、私は、…どうしても真子に幸せになってもらいたいの」 言った途端に堪えきれずに涙が溢れ、慌てて俯くと、そのまま真子に抱き締められた。不意に感じる体温と香りに、胸の奥がぎゅっとなる。そしてそれと同じ位に安心してしまって、私の涙は止まらなかった。 少し前の夕暮れの日を思い出す。浦原商店に突然やって来た真子が、両腕を広げてくれたこと。抱き締められた瞬間に100年前のことが鮮明に蘇って、愛しさで胸がいっぱいになったこと。「夢とちゃうやんなぁ」と頼りなげに言った真子の声が少し震えていたこと。ねえ真子、今度こそ私は言えるよ。これは夢じゃないんだってこと。 「…めんどくさい考え事は全部俺が引き受けたる」 耳元で真子は言った。きっと喜助君との関係のことを言っているんだろうとすぐに分かった。その優しさが酷く懐かしい。いつも先回りして、万全の状態で受け入れてくれる底なしの優しさ。 「せやからお前は、…ただ俺の傍におってくれ」 その語尾は微かに震え、抱き締められる腕の力は強まった。息苦しさを伝えようと、「真子?」と名前を呼んでみるも返事はない。代わりに、後頭部に宛がわれた手が緩慢に私の髪を撫でた。ああ、そっか。一人で密かに納得すると、なぜだかとても優しい気持ちになった。 「…真子、…泣いてるの」 当然答えは返ってこなかった。 私も真子を強く抱き締め返そうと思うのに、渡し損ねたコーラのせいで、いまいち力を込められなかった。それでも猿柿副隊長からもらったコーラを地面に落とすわけにもいかず、私は出来る限りの愛をもってその薄い体を抱き締めたのだった。垂れ込めていた低気圧は、ぽつりぽつりと、小さな雨粒を落とし始めていた。 |