日中の暑さが残る夕暮れ時。空は橙色から藍色へのグラデーションを描き、その晴れた夕空に、はしゃぐ子供達の声が響いている。その声を遠くに聞きながら、私は静かに、アネモネ模様の浴衣のことを思い出していた。夏の夜風にあの袖を揺らした日から、今日で1年が経つ。空座町には、今年も夏祭りがやって来た。





花 葬  … last story






少し強めに赤い帯を締めると、その腰の細さは本当に驚く程だった。驚いて言葉を発し損ねたまま、私は帯の形を整える。彼女の華奢な身体に、この爽やかな浴衣はよく似合う。白地に赤の金魚が泳ぐこの浴衣は、もうずっと箪笥の奥にしまわれたままだったそうだ。


「すごくよく似合ってます、猿柿副隊長」


彼女は鏡に映る自分を見て、ふんと鼻で笑った。このところジャージ姿の彼女にすっかり慣れていたけれど、元々は死覇装をまとっていた人なのだ、和服姿の方がやはりしっくりくる。


「…なんか、うちがこんな格好してたら、馬鹿にされそうで気に入らんわ」


彼女は忌々しげに、窓の向こうで煙草をふかしている真子の方を顎でしゃくった。私は首を傾けながらもつい苦笑してしまう。浴衣姿の彼女はとてもかわいらしいけれど、確かに、彼女たちの普段のやり取りを思えば、彼女が警戒するのにも頷ける。彼女と真子の関係は、私が近くで見ていた頃のものと、今でも全く変わっていないのだ。





彼女がこの浴衣を出してきたのは昨夜のことだった。そして私に、「明日の夏祭りのことやけど」と少し不機嫌そうに言った。私は一年前のことを思い出し、息が詰まりそうになるのを必死で堪えながら、話の続きを促す。すると彼女は、


「浴衣があんねんけど、うちはそれを着ていこうと思う」


と、私とは視線を合わさずに言った。いつも真正面から人を見据える彼女にしては珍しいその態度。私は彼女の表情を見てすぐに分かった。


「はい。そんなに上手じゃないですけれど、お手伝いします」


微笑んでそう言えば、彼女は一瞬驚いたような顔をして、そしてその後小さく笑った。


この1年、共に暮らしたことによって、私は昔よりもっと彼女のことが好きになっていた。険しい表情がぱっと笑顔になる瞬間を、何度も見たせいかもしれない。死神だった頃は仕事上の付き合いでしかなかったので、私は今こうして、おかしな経緯ではあるけれども彼女と親しくなれたことを、実は幸せに感じているのだ。





「ほな、真子に見つかる前にうちは行くわ」


彼女の脱いだジャージを畳んでいた私は、驚いて顔を上げた。浴衣姿の彼女は何でもなさそうな顔をして、さっさと部屋を出ようとしている。


「え、行くって、一緒に行かれるんじゃないんですか?」


慌てて中腰になりながら問うと、彼女は振り返って眉間に皺を寄せた。


「誰が好き好んで邪魔者扱いされんねん」
「そ、そんな」
「まァ、お前がそんな振る舞いをせえへん奴やっちゅうことはよう知っとるけどな」


彼女は片方の口角だけを吊り上げて笑った。私は上手く答えられずに口を噤む。下を向いたらジャージのほつれが目に留まったけれど、それを伝える為に再び顔を上げたときには、彼女はもう部屋を出て行くところで、やはり何も言えなかった。





さっき帯を締めた、あの細い身体を思い出す。あんな身体で護廷隊の副隊長を務め、剣をふるい、酷い目に遭って現世で生きてきたなんて。まるで少女のような出で立ちの彼女は、たくましく、賢くて、不器用で、そしてとびきり優しい人だ。


優しい彼女の不器用な振る舞いに、一体どれだけ救われてきたか知れない。ここで暮らすようになって間もない頃は、日が落ちて夜がやって来る度、喜助君のことを思い出さずにはいられなかった。そしてどうしようもなく苦しくなったものだった。しかしいつか彼女に言われた、私の幸せを望む人がいるんだという言葉が私を支えてくれた。彼女はこうも言った。


「人から幸せを願ってもらえるっちゅうのは、そいつ自身の幸せが、そのまま周りの幸せっちゅうことなんや」


優しい彼女が、浴衣姿で一人、夏祭りの河川敷を歩くところを想像してみた。それは涙が出そうになる程懐かしい、夏の夕方の景色だった。







2人分の冷えた缶ビールを手に、倉庫の屋根に跳び上がる。トタン屋根に硬い靴音が響くと、先に屋根に座っていたが振り返った。


「おそーい」


わざとらしく声を上げて笑うに、俺は無言で缶ビールを渡してやる。そのまま隣に腰を下ろせば、自然な流れでが距離を詰めてきた。ぬるく流れる夜風の中、軽く触れ合った指先同士がじんわりと熱を持つ。


雲の無い夜空は、夏祭りの為に誂えられたように黒かった。打ち上げられる花火を、今か今かと待っているようにも見える。遠くの方に僅かに見える出店の光、その光の隙間にも、同じように花火を待ちわびる奴らがおるんやろう。


「真子、乾杯しようよ」


明るい声では言って、ビールを突き出してきた。


「夏祭りに乾杯」


缶と缶のぶつかる鈍い音に、はとても嬉しそうな顔をした。そのまま白い首を晒してビールを煽る。俺は気付かれへんように横目でその様子を見ながら、何とも形容し難いような、面倒くさい感情を抱えていた。いや、面倒くさいと言うとネガティブな響きになってしまうか。正確には何て言うたらいいんやろか。


ビールを飲み下しながら暫く考えていると、自分が無口になっていることに気付いて、俺は取り繕うように口を開いた。


「ひよ里の浴衣、おおきにな」


言ってみて、これが存外に重要な案件であることに気が付いた。何もない夜空を見上げていたが、不思議そうに顔を向ける。


「知ってたの?猿柿副隊長、真子に会わないようにって言って出て行ったのに」
「知っとるも何も」


そうか、ひよ里はこの経緯をに話さんかったんか。俺はビールを一口含んで、尚も不思議そうに目を丸くするに、ひよ里があの浴衣を着たがった理由を教えてやった。


ひよ里が箪笥を引っ掻き回しとったんは、昨日の夕方のことやった。俺が声を掛けると、まるで悪戯を見つかった子供のようなばつの悪い顔をして、「浴衣や」と言った。今日の夏祭りの為に浴衣を着ようと思い立ったらしいが、普段色気の『い』の字もないひよ里にしては、珍しい以外の何でもない。俺はからかってやるつもりで、「明日雨降るんちゃうか」などと言っていたのだが、ひよ里は妙に真面目な顔をする。それでよくよく聞いてみて、ひよ里の口から零れたんは、何の飾りも無い、だからこそ本人の切実さが伝わる言葉やった。


「去年アイツが浴衣着とるんを見て、祭っちゅうのはそういう華やかなもんを着る場所なんやって、思い出したんや」


俺は言葉を失って、ぎりぎりのところで「さよか」と答えるのがやっとやった。黙々と浴衣の為の小道具を探すひよ里の背中を見ていたら、何か胸に迫るものがあった。そして思った。ほんの少しかもしれんけど、ほんまに指の先程かもしれへんけど、ひよ里も救われたんやろう、と。死神も人間も嫌いやと俯くひよ里を見ることも、これからは少しずつ減っていけばいい。


はビールに目を落としたまま、俺の話を黙って聞いていた。しかし話が終わるとゆっくりとビールを口に運んで、落ち着かせるように長い溜息をつき、掠れそうな声で言った。


「…去年の夏祭りの夜は、1年後がまさかこんな風になってるなんて思わなかった」


の着ている黒いTシャツは夜闇の中に溶けていた。長い髪に隠されている横顔はとても儚い。俺は、触れていた指先を絡めて手を握り締めた。こうして容易く手を握れるようになった今でも、この薄い手のひらに触れると、情けないくらい切なくなる。ああ俺はこの手が欲しかったんやなぁと、がおらんかった100年余の年月を思う。


「まだ気にしとんのか、喜助のこと」


努めて明るい声で言うと、は俯き加減のまま首を横に振った。


「そういう意味じゃないのよ」
「…そんなら何や」
「ただ、きっとこれが幸せの最大公約数だったんだろうな、って」


がそう言って顔を上げた瞬間やった。空気を震わす低い音と共に、真っ暗闇やった空にくっきりと花が開いた。鮮やかな赤と黄色の花弁が飛び散って、その一瞬、の横顔が昼間のように鮮明に見えた。それに続いて何発も打ち上げられて、夜空は暗くなったり明るくなったりを繰り返す。


1年に1度、この町の夜空に散る鮮やかな花。何の意味もないその花の色に、こんなに胸を打たれたんは初めてやった。落下していく花の欠片に、手を振ってやりたい位。自分がこんなにロマンチストやったとは知らんかった、けど、隣にいる女の横顔を見たら、そんな発見は大したものじゃないと思った。の丸い眼球に映る花火は、俺のこの目で見ているものより100倍美しかった。結局は、全てそういうことなんやろう。俺の中にあるこの面倒くさい感情の正体がやっと分かった。


「なァ」


花火を見上げたまま声を掛けると、同じく花火の方を見たまま、が「なに」と柔らかく答えた。


「俺、お前を幸せにする為に生まれてきたんかもしれへん」


俺の言葉に重なるように、花火の音は絶えず町中に響いていた。普段のやったら照れて笑い飛ばしそうなこの台詞を、今夜のは、ちゃんと聞いていたのかいなかったのか、ただゆっくりと俺の肩に頭を乗せてきた。


絡めあった指はそのままに、夜風が2人の髪を撫でていく。つい飲むことを忘れていた缶ビールは、きっとぬるくなっているやろう。、と名前を呼ぶと、静かに指の力が強められた。幸せにしたいと願う奴の幸せの為には自分の存在が必要という、圧倒的な幸せ。重ねた手と手の間には、そんな幸せが横たわっている。






蚊取り線香を焚いた縁側で、喜助は煙管を銜えていた。民家の屋根から上る花火を見上げて、ぼんやり煙をくゆらせている。すると、夜闇に溶け込んだ小さな庭から、黒い影が飛び出してきた。身軽な動きで縁側に飛び乗ってきたその影は、細身の黒猫。その黒猫は賢そうな目で喜助を見上げ、僅かに目を細める。


「久し振りじゃの、喜助」
「相変わらずお元気そッスね、夜一サン」


喜助は煙管を銜えたまま、特に驚いたふうでもなく言うと、ちらりと夜一を見やった。夜一が何を企んで顔を出したのかは知らないが、頭の上がらないかつての上官であることは確か。茶の1つ位は出すべきかと、喜助は立ち上がった。


台所へ向かう喜助の後を、夜一はまるで本当の猫のように静かについて行く。その気配にもちろん気付いている喜助は、冷蔵庫を覗きながら、「麦茶と牛乳どっちがいいッスか?」と間延びした声で問うた。しかしすぐ後ろにいる夜一は答えない。返事が無いので喜助が振り返れば、夜一は背筋を伸ばしてきょろきょろと部屋を見回していた。


の姿が見えんの」


そんなことはわざわざ部屋を見回さずとも、霊圧を探ればすぐに分かることだろうに。いくらの霊圧が限りなく低いとて、夜一ほどの能力があれば、親しい者の霊圧を見きわめる事くらい容易い筈だ。しかしそこを敢えて喜助に尋ねてきたのが、夜一が今夜ここに来た理由なのである。


時刻は午後9時前を指していた。外では花火の打ちあがる音が絶え間なく響いているが、花火は9時で終了するため、そろそろフィナーレを飾る派手な花火が上がり始める頃だろう。喜助はぼんやり考えながら、とりあえず牛乳を取り出した。


サンならもうこの家にはいませんよン」


いつもの軽い調子で言うと、戸棚から薄い皿を一枚選び出す。夜一が人間の姿に戻る気配が無さそうなので、猫の姿でも飲みやすいよう、その薄い皿に牛乳を注いでやった。


「ボクは今一人で住んでます。だからホラ、無精髭も伸び放題ッス」


喜助はそう言って顎に手をやりながら、牛乳の入った皿を縁側まで運んだ。自然、夜一もそれに続く形になる。そのまま元居た場所に座ると、夜一がその隣でしなやかに伸びをした。毛並みのいい黒猫の姿は、夜一のイメージによく合っていると喜助は思う。


「儂の察しが正しければ、喜助、お主は自ら身を引いたということか?」


出された牛乳には口を付けぬまま夜一は言った。花火の光が、空を明るく染めている。その空を見つめたまま喜助は何も答えない。喜助は自分の上官がいかに優秀かを知っている。だから、自分が答えずとも、夜一ならおそらく事の流れをほとんど正確に察しているだろうと思っているのだ。ここ数年ほとんど姿を見せなかった上官が、今日この日にやって来たということに、意味の無い筈が無い。


祭のフィナーレを飾ろうと、色とりどりの花火が今までとは桁違いの眩さを放っている。次から次へと上がる火の粒に、喜助は沢山、の面影を重ねた。重ねたところでどうにもならないし、そもそもどうにかしようと思っているわけでもない。未練があるのかというと、おそらくそうでもない。ただ喜助は、願っているだけだった。


「…結局こうなるなら、儂が最初にお前にを託したのは間違いじゃったかのう」
「何つまんないこと言ってんスか、むしろ夜一サンには感謝してますよ。多分サンも」


喜助は空を見上げたまま言った。その横顔が存外に朗らかなものだったので、夜一はひっそりと安堵の息を吐いた。


夜一は、が喜助と別れ、かつて恋人同士であった真子のところへ行ったことを知っていた。自分の想像を超える葛藤が彼らの間にあったのだろうということは簡単に分かるから、その件に関しては何ら口出しするつもりは無かった。夜一にとっては、最初から最後まで目をかけた部下である。不運な事情で現世に来ざるを得なかったが幸せになることは、夜一も心から望んでいた。しかし、同様に、喜助も非常に大切な部下だったのである。だから、決して直接言葉にはしないが、夜一は喜助にも、幸せでいてほしかった。恵まれた能力を持ちながらかつての世界を追放されたこの男に、これ以上苦しむべき理由は無い筈なのだから。


「夜一サン、ボクは、決めてたことがあるんスよ」


花火の音に消されそうな程小さな声で喜助は言った。花火の放つ光で、喜助の瞳は淡く光っている。


「今日、この花火が終わったら、ちゃんとお葬式も終わらせようって」
「葬式…?死神のくせに何を言うとるのじゃ」
「ハハ、ボクはもう死神じゃないッスから」


喜助がと別れてから今日までずっと、静かに丁寧に続けてきたこと。それは、喜助自身の気持ちを棺桶に詰める、一人だけの葬式だった。を忘れよう、というのではない。愛しいという気持ちを無理やり消し去るのでもない。ただ、棺桶に詰めて眠らせる。「を幸せにする為に身を引いた」という気持ちを、弔うのだ。が真子と一緒になって幸せになる為に、自分は身を引いたのだと、喜助自身ずっとそう思っていた。しかし本当にはそうではなかった。そのことに気付いてから喜助は、今日の夏祭りの夜で、この長い葬式を終わらせようと決めていた。


空座町の夜空が、またいつもの色を取り戻すまで、あと何分、あと何秒残っているのだろうか。この空から火の光がきれいさっぱり無くなってしまったら、葬式は静かに終わる。


「身を引いたんじゃ、ないんスよ」


花火の弾ける音がする。散っていく火の粒が切なく弧を描く。夏の夜空を、無に返していく。


「―運命なんスよ」


最後の火が落ちきると、そこにはいつもの空座町の黒い空が広がった。べったりとした風が縁側を吹き抜ける。長い間吊るされていた、金魚鉢の形の風鈴はもうそこには無かった。


黙って聞いていた夜一は、ゆっくりと身を起こすと、猫らしくのんびりとした欠伸をした。喜助はそんな夜一に小さく微笑みかけてから、ゆっくりと立ち上がる。そして台所へ向かったかと思うと、今度は一升瓶と硝子杯を二つ手に持って、また縁側に戻ってきた。


「夜一サン、いいお酒があるんスよ。一杯どうッスか?なかなか手に入らない銘酒ッス」


縁側に置かれた硝子杯に、トクトクと音を立て透明な酒が注がれる。その隙に夜一は猫から人の姿へと戻ると、硝子杯をゆっくりと手に取った。


「うむ、良い香りじゃの」
「デショ?じゃ、久々の再会に、乾杯」


二つの硝子杯が、繊細な音を立てて合わされた。
鮮やかな花の咲いていた夜空には、静かに星が瞬き始めていた。