このまま、どこまでも行ける気がした?ずっと続いてゆくと思っていた?
笑いかけてくれる彼の横顔を見て安心しながら、守られながら?
彼と一緒なら、たとえ目隠しをしていたってきっと歩いていけただろう。
だけどその先に、未来はあった?





花 葬  … story 14






傷つかなくていい毎日に、慣れてしまっていたのかもしれない。だって、彼と私しかいない世界には、私を傷つけるこわいものなんて何も無かったから。傷口はあったけれど、それもいつしか治ってしまって、多分今では傷跡さえも、目を凝らさなければわからない。そんな風に、自分にやさしいところだけを大事にしてきたから、本当に大事にしなければならないことを見失ってしまったのだろう。


「ボクは自分のことしか考えていないような奴なんス」


喜助君がやや自嘲気味に言うのを、私は黙って聞いていた。彼の言葉の1つ1つ、空気を震わす声の一瞬ごとが、ぐんぐん胸の中に入ってくる。何か答えなければいけないと思うのに、相槌程度に首を動かす位しかできない。


「あなたの為あなたの為って言いながら、本当は、あなたの為になんて何も出来ちゃいなかった」


そんなことないよ。そう、すぐに言わなくちゃいけないのに、私の口はどうして動いてくれないのだろう。彼が一瞬寂しそうな顔をして、胸がずきんとする。


「それってつまり、サンを本当に救ってあげられるのは、ボクじゃないってことなんスよねェ…」


そう言って、今度は困ったように笑う。その表情を前にして、私はどんな顔をしているだろう。どうして上手く言葉を返せないのだろう。彼がこんなにも言葉を選んで、出来る限りの優しさをもって、私に接してくれているのに。どうしてそれに応えられないのだろう。突然のことに驚いているから?それもあるけれど、でも、絶対にそれだけではない。


「…サン、」


私の名前を呼ぶ声が、2人きりの世界に響く銃声みたい。





サンは、まるで世界の終わりに立ったみたいな顔をしていた。綺麗な顔にどうしようもない戸惑いを乗せて、ボクの目を見つめていた。それでも揺れそうで揺れない瞳の奥が、ボクと彼女の全てであるような気がして、ボクは言葉を紡ぐのをやめなかった。


ボクがサンを愛していることに間違いはないこと。愛しているから幸せにしてあげたいと思っていること。だけどボクじゃ駄目なんだと分かってしまったこと。サンだってそれは分かっているのに、過去のしがらみや恩なんていうつまらないもののせいで、自由を選べなくなってしまっていること。そしてそれは結局ボクがサンを幸せにしてあげられない全ての理由なんだってこと。だから、サンが幸せと自由を手にするために、この家を出ていってもらいたいこと。自分自身の気持ちに向き合ってもらいたいこと。100年前に失った、愛する人のところに、今なら行けるのだということ。


まだやめられる。まだ方向転換だってできる。今ならまだ、このままでいられる。
何回も頭の中でそう繰り返されたそれらの言葉たちは、誰のものだったのだろう。きっとボクを見ている客観的な自分がそう囁いていたんだろうけど、ボク自身は、今ここで全てを言ってしまわなければならないと知っていた。でないと、彼女が幸せになれないことに、もう気付いてしまっていた。


全てを告げると細い沈黙が流れた。世界の終わりにいるような顔をしていた彼女は、ボクの言葉を1つ1つ噛み締めるようにじっとしている。伏せられた長い睫毛を、愛しい、と、素直にそう感じた。


「…笑って下さいよ」


ボクが言うと、険しい顔をしていた彼女はふっと眉間の力を抜いた。そして一瞬唇を噛み締めた後、その両目を緩やかに細めてみせた。小刻みに揺れる濡れた睫毛の様を見て、ボクの胸は、崩れ落ちそうな音を立てる。


ああ、こんな顔をさせたかったわけではないのに。ボクはずっと、もう何十年も、サンに無理をさせたくなくて、サンを苛む全てから彼女を守りたくて、その為に傍にいたはずなのに。最後の最後にこんな風に、悲しげに微笑ませてしまうなんて。


「……これからあなたは、何にも捕らわれないで、本当に幸せになれるんス」


凄まじい自責の念に押し流されそうになりながら、ボクは言った。正面の彼女は、こくりと小さく頷いた。決して涙を落とさない、飽和量を超えそうで超えない、潤んだ両目が、ためらいなくボクを見据えて、そして再び、こくりと頷いた。綺麗な人だな、と思った。


「喜助君」


切ない笑顔を浮かべたまま、サンはボクの名を呼んだ。そして適切な言葉を探すように暫く黙り、ゆっくりと息を吸い込むと、選び抜いた言葉を口にした。


「……ありがとう……」


正直、それは予想外の台詞ではなかった。だからボクもそう言われたときの為の返答は、ある程度準備していた、つもりだった。しかし実際に目の前に現れたその台詞は、言葉以上の意味を持ってボクの内側に染み込み、とめどなく広がっていったのだった。


ゴメンとか申し訳ないとか、そういう台詞の方がよっぽどよかった。そういう台詞だったならボクは、そこに見える罪悪感からサンを救うために、迷わず手を伸ばすことができたのに。謝るなとか悪くないよとか、そういうことを、笑顔で口にできたはずなのに。そう、今までのように。


だけど「ありがとう」なんて、言われてしまったら。
ボクがあなたにしてあげられる事は、もう本当に何もなくなってしまった。


「…私、喜助君に本当に感謝してる…。どうやって恩を返せばいいか分からないほど」
「…ボクは何もしてませんよ」
「私を救ってくれたのは喜助君だよ」


淀みなく紡がれるサンの言葉は本当にありがたかった。胸が詰まるくらい嬉しかった。だけど、どうしようもなく駄目なボクは、同じく胸が詰まるくらい悲しかった。だって、ボクは彼女を救えても幸せにはしてあげられないのだから。


こんなに好きなのに、こんなに自分だけのものにしたいと思っているのに。そして、きっとやり方次第では、彼女はボクのものになってくれるのに。だけどボク達は、どんなに強く抱き合っても、互いの肌と肌の間に、冷たすぎる悲しさを孕んでしまっているから。だからボクは最後の最後に、最低な狡さをもってして、彼女の手を離すのだ。


サン、最後に聞いてもいいッスか?」


彼女はボクの言葉を促すように、僅かに首を傾けた。そのとき首筋に浮き出た華奢な筋のラインさえ、もう何だか、遠く見える。


「ボクのこと、好きでしたか?」


大概、人が悪いよなぁと思う。ちらりと目線をあげれば予想通り、ぱっちりと目を見開いた彼女と視線が合った。彼女は驚いているようだったけど、それでも全く照れるような素振りは見せずに、頷く。


「もちろんだよ」
「じゃあ平子サンのことは?」


間髪入れず問い返したら、今度こそ彼女は表情を変えた。みるみる目の奥が揺らいで、悲しそうな顔になる。彼女を悲しませたくないと思って過ごしてきたこの長い月日を、ボクはボクの手で終わりにする。彼女の足元を流れる、勢いのある強いものに、全てを任せてしまおう。奪い去っていってもらおう。余すところなく。


サン、ちゃんと言って下さい。でないとボクは化石になるまであなたを待ってしまう」


するとずっと耐えていたのであろう涙が、音もなく静かに彼女の頬を滑り落ちた。柔らかな頬を流れる、無色透明な美しい涙。


彼女は慌てることなく落ち着いた所作でその涙を拭うと、すっと顔を上げた。とても凛とした表情だった。だけど、実はその胸の中が今にも潰れそうに苦しんでいることを、ボクは知っている。知っているけど、でもせめて最後に、ボクは彼女に傷つけてほしかった。最低な狡さだと本当に思うけれど、でも。


「…私、真子のこと…」


彼女のまっすぐな視線を受けて、ボクは微笑んだ。心の中で、さよならと言った。


「真子のこと、今でも愛してる」






少しずつ箸をつけられて残されたままの食事を、ボクはぼんやりと見つめていた。桜色の茶碗に盛られたご飯は、流れた時間の長さを示すように、固く乾いてしまっている。早く片付けないと。そう思うのに、なかなか腰を上げられない。この食事を残したのはサンだけど、片付けるのはサンじゃなくて、ボク。もう今ここにいるのはボクだけなのだから。


サンのいなくなった部屋。勿論今までも彼女が留守にすること位あったから、今この部屋にボク1人でいることは、珍しいことでも厭うべきことでもなんでもない。だけど、なぜか、がらんどうになってしまった気がする。光がなくなってしまった気がする。彼女という人が、この卓を離れて、部屋を出て行った。その瞬間から、この部屋にもボクの心の中にも、空洞ができてしまった。


ボクは胡坐をかいていた状態から足を投げ出して、その場に大の字になって寝転んだ。何度も見上げた天井の板目。垂れ下がった電球。だけど、こんなにつまらないものだっただろうか。もともとそんなに価値のあるものではないけれど、それにしたって、価値が無さすぎる。くだらなさすぎる。どこにも何の意味もない。そんなことを考えている自分を、どこか客観的なところにいる自分が、「一番くだらないのはお前だろ」と笑っている。「お前が勝手に決めたくせに」と。うん、そうなんだよな。だからボクは今ここでこうしているんだ。


「あーあ…」


意図せず漏れた呟きは、思った以上に空しく響いた。話すタイミングを間違えただろうか。彼女は何の準備もせずに、その身1つで出て行った。食事だって途中のまま。そりゃあ、あんな話をした後に平気で食事を続けられるような、そんな図太い神経は、彼女も、ボクも、持ち合わせていないから。


瞼を閉じると、その静寂の宇宙の中に、とめどなく彼女との日々が浮かんでくる。死ぬほど辛かったこと。悲しかったこと。それを乗り越えたこと。そしてその後にボク達が過ごした、花のような日々。これからもう永遠に上塗りされないそれらの思い出を、ボクは瞼の裏に焼きつかせる。溢れ出しそうな何かを必死で堪える。


ああ、やっと彼女を幸せにできた。
今は悲しいことなんて何も考えずに、ただそれだけを思っていたい。