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作業の傍ら流しっぱなしにしていたノイズ混じりのラジオからは、リスナーからの便りを楽しげに読み上げる、若い女の声が聞こえてくる。ボクはそれを適当に聞き流しながら手元の作業に集中していたのだが、不意に耳に滑り込んできた言葉に、思わず手を止めてしまった。 『さて皆さん!今日から9月ですね!新学期が始まり・・・』 自室の壁に取り付けてある日めくりは、まだ、あの夏祭りの日付を示していた。 花 葬 … story 12 『9月といってもまだまだ日中は暑いですね!でも朝方や夜は気温が下がりますから、皆さん健康管理に、』 妙に調子外れな女の声を、ボクは指先1つで遮った。静かになった部屋で再度作業にかかろうとするが、どうにも手先が上手く動かない。自分の集中力が完全に途切れてしまったことを知り、観念して軽く首を捻れば、長く同じ姿勢でいたせいだろう、小気味のいい音が1つ鳴った。 夏祭りの日から時を刻んでいない日めくりに手を伸ばす。その1枚目の紙を、ボクは躊躇なく破り取った。そのまま次から次へと破り続け、紙が9月1日を示したところでやっと手を止める。足元に散らばった過去の日付たちの枚数は思ったより少なくて、あの夏祭りのことを遥か昔のように感じている自分がいることに、その時初めて気が付いた。まだ、たったこれだけしか日数は経っていないのか。それでももう9月という新しい季節はやって来た。畳に落ちた紙の倍以上は、確かに長かった、この夏。 9月ってあんまり好きじゃないのよねえ。 随分昔、サンがふと呟いた台詞。そう、確かあの時も、ボクは日めくりを捲るのを暫く放ったらかしにしていて、部屋にやって来たサンが呆れたようにそれを指摘したのだ。 「もう9月なのに、喜助君ってばまだ8月なの」 そう言って断りもなしに過去の日付を破り始めた。春夏秋冬のどれにも思い入れが無く、季節にただ身を任せているだけのボクにとっては、日めくりを捲ることはただの習慣、いや、習慣といえるほど根付いてもいない、単なる動作だった。だからサンが、9月というなんでもない30日間をあえて「好きじゃない」と評したことは、ボクにとって僅かな驚きだった。 なぜ9月が好きでないのか、ボクはあの時問わなかった。本当は問うべきだった。でも、日めくりを捲り終えたサンが、破った紙を捨てて、そのままボクにじゃれついてきたから、何となくそのままにしてしまった。9月が嫌いな理由より、その時ボクに手を伸ばしてきてくれたことの理由の方が、愛おしかった。 ボクはずっと、サンの心に寄り添ってきたつもりでいる。彼女に優しくしてきたつもりでいる。守ってきたつもりでいる。だけどそれらは、今になって思えば、何て陳腐なことだろうと思う。確かにボクの精一杯の優しさは、当時どん底にいたサンを、多少は救えただろう。泣いてばかりだった彼女の傍に毎日いたのはボクで、彼女が緩やかに笑顔を取り戻してゆく様を、この目で見てきたのだ。しかし、ボクの力はそこまでだったのだと、今は思う。 ボクには、サンを救うことは出来ても、幸せにしてあげることは出来ないのだ。もう、してあげられることが何も無い。それは酷く悲しいことだった。残念なことだった。夏の終わりがボクに教えてくれた、最大で唯一の、どうしようもない事実だった。 珍しい来客が顔を出したのは、その日の午後だった。 サンは昼に焼きうどんを食べてから、少し転寝をした後、買い物がてらゆっくり散歩をしてくる、と言って家を出ていた。ボクも午後から再度作業にかかろうと思っていたので、手を振って見送った。 1人になって、どうしようか、と、唐突にそんな言葉が頭に浮かんだ。そしてそのことにボク自身驚いた。何をどうしようと思ったのだろう。何を、どうしなければならないと思ったのだろう。分からないけれども、まだ僅かに聞こえる蝉の鳴き声の合間に、ボクの脳は「どうしようか」という言葉を確かに発していた。 途方に暮れそうな思いで立ち上がり、作業にかかる前に店の在庫品を確認しようと、気まぐれに店に出たときだった。まるで見計らったようなタイミングで、店の引き戸が遠慮がちな音を立てる。開店休業のようなこの店に、普通のお客さんがやって来ることなどほとんど無い。咄嗟に霊圧を探ってしまいそうになり、しかし、その警戒心はすぐに引っ込んだ。 僅かに開かれた引き戸の隙間から見えたのは、背丈の小さなシルエット。見慣れない服を着てはいるが、それは間違いなく、かつてのボクの部下だった。 「…これはまた…。お久し振りっすねェ」 思っていたより柔らかい声が出て安心した。びくりと身を竦ませた当人は、ゆっくりと引き戸を全開にする。カラカラと乾いた音を立てて開けられた向こうに、彼女は酷く気まずそうな面持ちで立っていた。記憶よりも幾らか小さい体だった。 「突然どうしたんスか?いやァ、ボクも今ちょうど、あなたの事考えてたんスよ。ひよ里サン」 よくもこうすらすらと台詞が出てくるものだと、我ながら感心してしまう。ひよ里サンもそう思ったようで、険しい眉間の皺はちっとも緩められなかった。おまけに忌々しげな舌打ち。相変わらずだ、と思って、ボクの心は自然と温かくなった。 「何かお買い物ッスか?急に駄菓子が食べたくなっちゃいました?」 「……そんなワケあるかい、ボケ」 やっと口を開いたひよ里さんの第一声はそれだった。どこまでも相変わらずな彼女に、薄暗かったボクの心がようやく光を取り戻す。乱暴な口の利き方に安心するなんて、客観的に見ればおかしなことかもしれないのが、元来ボクはこういう彼女が好きなのだ。 明るい茶色の髪に、臙脂色のジャージ。ひよ里さんの姿は、近所の中学生のようだ。しかし纏う空気はそんな甘酸っぱいものではない。彼女の纏う空気は、苦い。昔はそうじゃなかった。昔は、尖らせたトゲを周囲に向けてはいるものの、その先端には薄っすらと甘い香りを感じさせるような、そんな女の子だった。しかし現世での生活を学ぶうちに、変わってしまったのだろう。彼女自身、そのことに気付いているのかは分からないが。 「ウチは駄菓子屋ッスから、駄菓子以外はありませんヨン」 ボクは本来の目的である在庫の確認をするため、そこにあった1つの段ボール箱を開けた。ひよ里さんが不満げな表情をありありと浮かべているのは知っていたが、あえて気付かない振りをする。心は温かかった。しかしすぐに暗雲が立ち込めてくる。彼女がここに来る理由についての憶測が、少しも良い方向に進んでくれなかったから。 どれだけ考えてみても、彼女がただボクと楽しくお喋りに来ただけとか、サンの顔を見に来ただけとか、そういう、ボクにとって都合のいいことは、実際にありえる筈がなかった。それはひよ里さんの表情を見れば、―いや、見なくても、分かることだ。 彼女のこの幼い顔に、こんな深い眉間の皺を刻んでしまったのは、一体何者なんだろうとふと思う。誰が彼女をこんな風にしたんだろう、あるいは、何が。ボクはひよ里さんのことを単純に好いているあまり、同情的なそんな気持ちを抱いてしまうのだった。それはボクらが隊長と副隊長という関係にあったときからずっと。 段ボールの中を見つめながらそんなことを考えていると、不意にひよ里サンの視線がボクから外れたのを感じて、今度はボクが彼女の方を見た。彼女は、ボクの向こう側、ボク達が住居としている部分の方に目をやっていた。 「…、おらんのか」 「今は買い物に行ってますヨン。なーんだ、ボクじゃなくサンに用だったんスか?」 おどけて言ってみせると、ひよ里サンは首を横に振った。 「おったら帰ろと思とったから、丁度ええ」 ということは、サンに聞かせたくない話を、ボクにしたいということだ。とうとうボクの心の中は、端の方から暗くなってくる。けれどそれは、憂鬱な暗さではなかった。何か、諦念のようなものが、花のような甘い香りを持って、風に乗ってやってきて、そして鼻腔からもう離れないような、そんな感じ。 「そッスか。…なら、サンが帰ってくる前に、お話しなきゃいけませんネ」 買い物に行ってるだけッスから、そのうち帰ってくるかもしれません。 そう付け足すと、ひよ里さんは途端に緊張した面持ちを浮かべた。そして暫く俯いて、自分の上着の裾を摘んだり離したりを繰り返す。小さな手だが、やはりそれは子供の手とは違っていた。傷ついたことも、傷つけたこともある手。紛れも無い死神の手だ。 「……こんなん、うちが言うんはお門違いやっちゅうんは、分かっとる」 ぽつりとひよ里さんが口を開く。いつになく弱々しい声だったが、ボクはつい励ましたくなってしまう気持ちをぐっと堪えた。ああ、そうだ、ボクは、現世に来てからよくこんな気持ちを味わってきた。サンがいたからだ。肩を落とすサンを、幾度となく、励ましたくて、そして実際に励ましてきた。 それと同じ気持ちを、まさかひよ里さんに対しても持つことがあるなんて。それは意外な発見でもあり、逆に当然のことといえばそうかもしれなかった。サンも、ひよ里さんも、ボクにとっては守らなければいけない存在なのだ。その種類の違いや、込める想いの違いこそあれど、守らなければいけないということは一緒だ。 「何でも言って下さいよ、ひよ里さんらしくない。遠慮せず、ホラ」 やはり、ボクはひよ里さんに対してならいくらでも優しい声を出せる気がした。それは守るべき存在だから。傷つけたくない存在だから。 ボクが促すと、ひよ里さんはようやくまっすぐ顔を上げた。躊躇いに揺れる瞳の色を、ボクもまっすぐに見つめ返す。そして、緩慢な沈黙を持って、ひよ里さんは口を開いた。 「真子にを返したってくれへんか」 それはとても単刀直入な言葉だった。思わずボクが目を見開くと、ひよ里さんは慌てたように、いや、と一言口にして、首を横に振った。健気な仕草だった。 「うちにはの気持ちは分からへん。勝手なこと言うてるっちゅうんは、重々承知や。けどもう見てられへんのや。そうや、見てられへん、せやから、…返してくれとまでは言わん、ただ、ちょっとでええから、…貸したってくれるだけでええ。もううちではどうにもならへん」 一気にまくし立てるようにひよ里さんは言った。喋っている彼女自身、混乱している様は見て取れた。ボクは半ば、同情するような気持ちで彼女を見ていた。彼女の言葉は足りない。独り言のようなものとさえ言える。しかしボクには、彼女の不安定な気持ちが乗り移ったのかと思えるほど、彼女の言いたいことが分かってしまった。 「…真子にはがおらなあかんねん。せやないとアイツ、壊れてまう」 最後、ひよ里さんの声は掠れた。 泣いてくれればいいのに、と、ボクはどこか漫然とした思いで、ひよ里さんの旋毛を見つめていた。泣いて頼んでくれればボクだって、何の意地悪もせず、彼女が望む台詞を返してやれたかもしれないのに。やりきれない思いがボクの中で暴れだす。 サンの気持ちをまるで無視したひよ里さんの主張に、指摘すべき点は沢山あった。ひよ里サンの言い方では、サンはまるで意思を持たないモノのようだ。それにボクの気持ちだってちっとも考慮に入っていない。でも、―でも、ボクは彼女を救いたかった。その気持ちの方が強かった。 「……気が合いますネ。ボクも最近、同じようなこと、考えてたんッスよ」 ひよ里さんは首を跳ね上げて、ボクを見た。ボクはそんな彼女に至極優しい笑みを向けて、そして最大級の思いやりを込めて、言ってやる。 「サンは、平子サンがいないと幸せになれない人なんス」 ひよ里さんが静かに唾を飲み下す音が、9月1日の夕方、妙に大きく空気を震わせた。 ボクはこの世で一番のお人好しだ。 |