浦原商店の店先に水を撒きながら、私は額に浮かんだ汗を手で拭った。立秋をとうに過ぎ、暦の上では秋だというのに、まだまだ残暑は厳しい。水を撒く手は止めぬまま呟いた、「暑いなぁ」という独り言は、夕方の夏の気配に容赦なく黙殺されて、どこかへ消えていってしまった。





花 葬  … story 11






真子が浦原商店を訪ねてきた日から、今日で2週間。
私と喜助君は、まるで何事もなかったかのように日々を過ごしていた。それは客観的に見れば奇妙で滑稽なことなのかもしれない。しかし、お互いの安定している部分しか見せ合わず、ぶつかり合うことを極力避け、生身の部分に触れているようで本当はその指先にいつもオブラートをまとっているような、そんな関わり合いを長いこと続けてきた私たちにとって、それは至極当たり前のことといえた。逆に言えば、それ以外の関わり合い方を私たちは知らないのだ。


打ち水を終え居間に戻ると、喜助君は扇風機の首振り機能を停止させ、その正面を独占しているところだった。心地良さそうに目を閉じて風を浴びていたけれど、戻ってきた私に気付くと、ゆっくりと顔をこちらに向ける。その表情がどこか眠たげでぼんやりしていたので、私はつい口元を綻ばせてしまった。


「涼しそうね、喜助君」
「暑いッスよ…」


喜助君はそう言って、作務衣の襟元をぱたぱたと扇いでみせた。私は喜助君の隣に腰を下ろすと、その髪をかき分けてやるために手を伸ばす。少し固めの髪に指を通せば、喜助君はそっと目を伏せた。決して長くはない、けれど細かく生え揃ったその睫毛の様子を見ていると、心の一部がほろりと解けるような、崩れるような、そんな心地がした。


何かが変わってしまったんだなぁ、と思う。喜助君が目を瞑っているところなんて、以前は毎日のように布団の中で見つめていたのに、気付けばこの柔和な表情を見るのはとても久し振りだった。同じ布団ではなくそれぞれの部屋で眠るようになったのは、この夏を迎えてから―というより、あの夏祭りの辺りから。それはどちらからともなく自然と選ばれた、夜の過ごし方だった。


きっともう私たちの間には、二人で眠るために必要な何かが残っていないのだと思う。その『何か』が何であるのか、上手く言葉には出来ない。けれど、確かに私の胸の中からは、その『何か』がひっそりと失せていた。多分、喜助君の中からも。


「…汗、かいてるね」


そんなことを考えながらも、私は平静を装って声をかける。喜助君はゆっくりと目を開けて、ふっと柔らかに微笑んだ。綺麗で優しい笑顔。もう幾度となく、惜しみなく、向けられてきた笑顔だ。


サンも」


喜助君はそう言って私の前髪を軽く撫でた。髪の生え際あたりがしっとりと汗に濡れているのが自分でも分かる。こうして汗をかいた肌に触れられるのは、私が目を瞑る喜助君を見つめるのと同じ位、久し振りのこと。もともと喜助君はあまり躊躇なく私に触れてくる方だし、共に眠らなくなってからも、頭や手に触れられることはよくあった。けれど汗に濡れた肌という、ある意味デリケートで個人的なところに不意に触られると、否が応でも頭の中に官能的な感覚がよぎってしまう。それは、現世で喜助君と暮らし始めてから数十年、優しく愛されてきた記憶の仕業だ。


扇風機の風に乗って、微かに喜助君の肌のにおいが鼻腔に届く。そうして私が思うことは、好きだとか愛しいだとか、そういう気持ちではなく、ただひたすらに「懐かしい」ということなのだった。慣れ親しんだそのにおいは確かに愛しく、間違いなく好きなもの。それなのに今それは、私の胸を高鳴らせるのでも満たすのでもなく、ただ切なく締め上げるのだ。愛が懐かしさに変わるということ。それはつまりどういうことなのか、誰かそれを適切な言葉にして、そっと私に教えてはくれないだろうか。


(…どうするのが、一番いい?)


先日私が漏らしたその言葉に、喜助君は「大丈夫」と言った。その抽象的な言葉自体は何も力を持たない。けれど、その言葉の裏側にある喜助君の気持ちを思うと、私は今すぐにでも泣くことができる。喜助君の優しさはいつだって、夏の夕暮れの空気のように、水分をたっぷりと含んだ柔らかさで、私を守ってくれるから。


守られることは、幸福。けれど、守ってくれる人を守ってあげられないことは、切ない。私は今まで一度だって、喜助君を守ってあげられたことがあっただろうか。喜助君に守られて甘やかされて救われて、それに慣れてしまって、喜助君の心に巣食う悲しさや空しさに、触れてあげられたことはなかった気がする。


(…ごめんね)


声には出さずそう呟くと、喜助君の髪に触れていた手が、微かに震えた。





人気(ひとけ) の無くなった、夜の河川敷。日中厳しい暑さをもたらした太陽が沈んだ後、南天には痩せっぽちの三日月が浮かんでいる。黙ってその月を見上げていたひよ里は溜息を漏らしそうになって、寸でのところでそれを飲み下すと、代わりに盛大な舌打ちをした。踏ん反り返って腕を組み、目の前で自分に背を向けている人物を見据える。見慣れたというより見飽きたといったほうが正確かもしれない、山吹色のおかっぱ頭。絹糸のようなその髪は、秋の匂いを含んだ風に、微かに揺らされていた。


(いつまでこうしとるつもりや、アホ真子)


いつものひよ里なら、威勢よくそう怒鳴って、拳の1つや2つは繰り出していただろう。しかし今夜はいつものひよ里ではなかった。そしてそうさせたのは、いつもの真子ではない真子だった。


なだらかな斜面になった河川敷の水際に立ち、真子は川面を見つめていた。暗がりのせいで水の流れはほとんど見えないが、絶えぬ水音のおかげで、その流れの様子は容易に想像がつく。ゴウゴウというのでもなく、ザアザアというのでもない、ただ風に吹かれているだけのような微かな水音。月明かりくらい映っていれば風流でいいのだが、あいにく今夜の月は、川面に映る程の輝きを持っていなかった。そんな、いってしまえば何もない川面を見つめている真子が、一体何を考えているのか。少し離れたところからその背中を睨んでいるひよ里には、皆目見当がつかなかった。


ここ数日、真子はずっとこんな調子だ。仲間といるときは普段と変わらぬ飄々とした態度でいるのだが、夕食を終え、各々の時間を過ごすときになると、真子は行き先を告げることなく部屋を出ていってしまう。最初の数日は、ひよ里もさして気に留めなかった。しかしそれが毎晩となるとさすがにひよ里も気になって、部屋を出ようとする真子に、何気なく「どこ行くんや」と尋ねてみた。すると真子はひよ里の方を振り返ることもなく、たった一言、「ほっとけ」と答えたのだ。


自分が触れられたくないことには決して他人に触れさせない。真子にはそういう特技がある。しかし今回はその特技を上手く扱えなかったようだ。様子がおかしいことを気にした人物に「ほっとけ」と言うなど、自分から「何かあります」と吐いているようなもの。普段の真子ならひよ里が疑うことも出来ぬくらい上手く隠してみせるのに、今回はまるでそんな余裕がないようにすら見える。だからひよ里は、黙って歩き続ける真子の後を追って、ここまでやって来たのだが。


(…うち、どないしたらええんや)


何も言わぬ真子と、何も言えぬ自分自身に対して、ひよ里は溜息を吐いた。もともと人を励ますのは苦手な方だ。おまけにその相手が真子ともなれば、尚更のこと。


弱いところを見せぬ筈の真子が、こうしてあからさまに、しょげた様子を見せている。何とかしてやらなければ、と思うのに、ひよ里にはその方法がさっぱり分からなかった。何を考えているのかも分からなければ、何をしてやれるのかも分からない。ただ目の前で真子は肩を落としている。そんな状況は、はっきり言って、苦手だった。


ひよ里が背後に立っていることは分かっているはずなのに、真子は自ら口を開こうとはしない。「帰れ」と言うこともなければ、空気を取り繕うように話すこともない。ただひよ里に背を向けて、何もない川面を見つめている。きっとひよ里が内心で困り果てていることなど、気付いているに違いないのに。


(…何かあったんやろか。真子にとっての『何か』っちゅうんは、昔から大体同じことやけど)


そう考えて、ひよ里の眉間の皴はますます深くなった。脳裏に浮かんだ一人の人物がこちらを見て微笑んでいたので、その笑顔を忘れようとして思わず目元に力が入ったのだ。凛とした表情が一瞬にして子供のようなあどけない笑顔を浮かべる様を、ひよ里はもうずっと昔から知っている。聡明でどこか奥ゆかしささえ感じさせるその出で立ちも、真子が愛しげにその人物を見やる目も、何もかも、思いだすことができる。その人物はたった一人、真子を有頂天にも奈落の底にも連れてゆくことが出来る存在なのだ。


(そない好きなんやったら、今すぐ奪い返したったらええんや)


今度こそ、ひよ里は溜息をついた。