「……そういうわけには、いかないよ」
ゆっくりと、聞き違えの無い明瞭な声で、は言った。





花 葬  … story 10






まさかそんなにも明確な答えが返ってくるとは思っていなかったので、真子は驚きの表情を露わにした。思わず、握り締めていたの手を離してしまう。そうして自由になった手を、はおずおずと自身の体の横に戻した。その手にはまだ真子の手の温かさが充分に残っていたが、それを振り切るように言葉を続ける。


「今、私は、喜助君とここに住んでるから。
来いと言われてハイと付いていけるほど、…簡単なことじゃないよ」


そうでしょう?と、確かめるように視線を向けられて、真子はついその目を逸らした。ほんの数分前に発した自分の台詞が、全ての力を失って宙に浮いたような気がした。


から視線を逸らし、その後に捉えたものは、昔ながらの日本家屋の形を保つ浦原商店。今この建物のどこかの部屋に喜助がいるのだと思うと、何ともいえない気持ちになってしまう。突然やって来た真子を、まず玄関で出迎えたのは喜助だった。そのとき喜助は全てを理解したような、やけに冷静な面持ちで言ったのだ。「サン、デショ?」と。


怜悧で英明な喜助のことであるから、きっとこうなることは分かっていたのだろう、と真子は思う。もしかしたらあの夏祭りの夜までは、何も考えていなかったかもしれない。しかしあの夜から今日までの日々のことは、寸分違わず予測していたに違いない。先の先まで正確に読むことが出来る、それが浦原喜助という男なのだ。


真子は浦原商店からへと視線を戻した。は少し俯いていて、それでもその両目は真子を見上げている。叱られた子供のように縮こまっているその姿に、思わず柔らかに目を細めてしまった。変わっていない、という実感が、またも湧き上がる。


「スマンな、忘れてくれ」


明るい声と表情でそう言ったものの、は微笑すらしなかった。もちろん頷くことも首を振ることもしない。ただ、膝丈のワンピースの裾が、ひらひらと風に泳ぐだけ。その態度が意味することを察した真子は、溜息をついて後頭部をがりがりと掻くと、せやから、と語尾を強めて言った。


「お前が辛いんやったら忘れたらええ、っちゅう意味やぞ」
「………」
「俺自身は、撤回するつもりはさらさら無いで」


の気持ちや、先のこと、現実的な問題。それらに考えが至らないほど強く湧き上がった感情が、衝動的に言わせた台詞。しかしが困ってしまったからといって簡単に撤回できるほど、それは安い台詞ではなかった。撤回するぐらいなら最初から言いはしない。それが普段から思慮深い真子のセオリーでもある。


その強い感情を感じ取ったのか、は漸くゆっくりと頷いた。その頷きは求めている返答とは異なっていたが、真子はとりあえずが反応を示したということ自体には満足しておくことにした。


「ほな、今日のところは帰るわ」
「え…」


が明らかな戸惑いを見せたが、それは見なかったことにして、真子はの頭に手を置いた。別れ際にこうして頭を撫でるのは、百年前と変わらない真子の癖だ。百年前から、何度こうして優しく触れられたか分からない。は強烈に懐かしさを感じたが、あえてそれを言葉にはしなかった。


真子は小さく微笑んだ後、軽く地面を蹴って飛び上がると、元居た電柱の上に立った。そして互いの視線が再び交わったとき、ゆっくりと口を開いた。


「百年前からずっと、俺はお前が好きや。お前が今、俺より喜助の方が好きや言うてもな」


自嘲気味なその口調にツンと胸が痛くなるのを感じたが、はやはり頷くだけ。何か言わなければいけないのは分かっているのに、言わなければいけないのは何なのか、それがどうしても分からなかった。真子はそうして迷っているの様子を見届けて、風のように一瞬で姿を消した。


真子の気配が全て無くなっても尚、は電柱の先を見つめていた。夢だったのだろうか。ふと考えが及んだが、自身の手のひらに残る確実な感触が、先ほど目の前にいたのはやはり真子であったと思い直させた。そして、百年前の自分の気持ちが、こうも鮮やかに蘇るものかと、驚かずにはいられなかった。夢の中でしか会えなかった男が目の前に現れたとき、の気持ちは、一瞬で百年前に引き戻されていたのだから。


「真子…」


ぽつりと呟いてしまったのは、電柱の遥か上に浮かぶ月の色が、先ほど見た、真子の髪の色と同じだったから。その月を見ながら、自分のところに来いという真子の台詞に、どうしてもっといい返事ができなかったのだろうとは思った。しかし自分の正直な気持ちを言えたからいいのだ、という気もする。どっちにしろ、あの台詞に安易な返答はできなかった。してはいけなかった。電柱から視線を落として瞼を伏せてみると、耳の奥で、自分の名前を呼ぶ真子の声が再び響いた。





その頃、喜助は台所の壁にもたれかかるようにして立っていた。作りかけのハンバーグを完成させようと最初は調理台に向かったのだが、駄目だった。勿論、技術的にハンバーグが作れないわけではない。むしろ料理は得意な方だ。ただ今はどうしても、作る気になれない。意図せず重い溜息が漏れた。


真子が浦原商店を訪ねてきた時、喜助は居間で横臥し、置きっぱなしになっていたの小説をペラペラと捲っていた。冒頭の数行を読んだだけでありがちな恋愛小説であることは分かったが、がこの小説が好きだと言っていたことを思い出したので、とりあえず最後まで頁を捲ってみようと思ったのだ。頁を捲るだけでろくに読んではいないが、何となく主人公の女が横恋慕しているらしいことは分かる。インターフォンが鳴ったのは、小説に飽きて頁を捲るのをやめようとした時だった。


その来客が誰であるか、喜助にはすぐ分かった。だから台所にいるであろうが先に玄関に行ってしまわないよう、急いで立ち上がったのだ。廊下に出てみると案の定も台所を出ようとしていて、目が合った時にどちらからともなく、困った、というような顔をした。その違和感には喜助も気付いたが、「ボクが出ますから」と言ってを制することで、その雰囲気を打ち消した。そう言ってもなおが居心地の悪そうな顔をしたことにも気付いた。しかしやはり、気付かない振りをした。


店の引き戸を開けてみれば、そこに立っていたのは喜助の思ったとおりの人物。そもそも霊圧に何の造作も施さずにいる人物のそれを読み間違うことなど喜助にはほとんど無いのだから、そこに真子がいることは、当然といえば当然だった。


「おや、平子サンじゃないッスか。珍しいッスね、うちに来るなんて」


喜助はへらりと笑ってそう言ったが、真子は両手をポケットに突っ込んだまま、不機嫌そうな表情を微塵も変えない。代わりに首を傾げてコキリとその関節を鳴らしてみせ、「白々しいのォ」と独り言のように言った。その台詞に喜助は肩を竦める。しかしトレードマークである縦縞模様の帽子を深く被りなおすと、やけに落ち着き払った様子で言った。


サン、デショ?」


何のために真子がここに来たか、もちろん喜助には分かっていた。そのため喜助は真子の返事を待たず、再び家の中へとを呼びに戻った。この後2人がどんな言葉を交わすのか、この先どうなってしまうのか、それらに考えが及んでしまう前にを呼ばなければ、真子を無理やり帰してしまいそうだったから。








が真子に会うため表に出て、十五分ほどが過ぎた頃。
カラカラ、と店の引き戸が開く音がして、喜助は顔を上げた。


「お帰りナサイ」
「…、喜助君」


喜助が台所にいるとは思わなかったのだろう、その壁に喜助がもたれているのを目にしたは目を丸くした。しかし一見屈託無く向けられた柔らかな表情に、つられるように口元を緩ませる。


「喜助君、ずっとここにいたの?」
「ハンバーグの続きでも、と思ったんスけどね。手につきませんでした」


その言葉通り、調理台には先ほどが捏ねていたハンバーグのたねがそのまま置かれている。それよりも「手につかなかった」という言葉が、にはずっと重く響いた。物事を上手くぼかして言葉にし、聞き手に本意を思案させることの得意な喜助だから、こうして不意に直接的な言葉を投げかけられると、慣れていないせいか戸惑ってしまう。


喜助は壁から体を離すと、戸惑い俯いているの頭に手を置いた。それは奇しくも、先ほど真子が別れ際ににしたのと同じ動作。思わずその偶然に反応してしまい、は勢いよく顔を上げた。しかしそこにいるのは、少し驚いたような顔をしている喜助だ。同じ動作なのに何かが違うと思ってしまうのは、自分が恋をしているからだろうか。その恋が誰に向かっているのかは、今は考えないでおくが。


「…どうでしたか?」
「え、何が?」
「平子サン。百年振り位だったでショ?」


百年って、言葉にすると何だか凄いッスよねェ。
喜助は笑ってそう付け足した。まっすぐな目でそう問われては、も誤魔化すことができない。は頭に置かれた喜助の手を取って、自身の両手で包んだ。


「…あんまり変わってなかったよ。百年も経ったのにね」
「そッスか。きっとあなたも、平子サンにとっては、何も変わってないんでしょうけどネ」


『平子サンにとっては』のあたりをあえて言葉にしたところが、喜助の覚悟なのだろうとは思った。いつになく真剣な眼差しに負けてしまいそうになるが、ここで視線を逸らしてはその覚悟に失礼だと思い、握り締めた手はそのままに、しっかりと喜助の目を見つめ返した。


「喜助君?」
「ハイ、何でショ」
「……私、どうするのが一番いいのかが、…分からないの」


今にも崩れそうな声でそう言ったの体を、喜助は咄嗟に抱き寄せようとした。しかし自分の手は今に握られているし、それに何より、抱き寄せてもこのどうしようもない欠落は埋められないと分かったから、やめた。本当は、欠落を埋めるためだけに抱き寄せようと思ったわけではないのに。


「大丈夫ッスよ、サン」


手を伸ばす代わりに、喜助はそう言った。何が大丈夫で、何が大丈夫でないのか。どうすれば正解で、どうすれば不正解なのか。そんなことは喜助も何一つ分かっていなかったが、今自分の目の前で涙目になっているを救いたいという、その気持ちだけは、確かだった。