情 熱






お前の一番欲しいものは何だ?


隣の男が先に寝息を立て始めた夜は、決まってその言葉が頭を巡る。暗闇に慣れた目が、「欲しいもの」という光を探しだす。でも、見つからない。きっとこの部屋には無いのだと諦めかけた頃、再びあの低い声が響く。


お前の欲しいものはおれの欲しいものでもある。


優しく細められた目に嘘はひとつも無かった。わたしの欲しいものなら何だって全力で手に入れようとしてくれるのだろうと、素直にそう思った。だからわたしはずっと、欲しいものを探し続けてきた。文字通り荒波を越え、書物を読み漁り、時に交戦し、わたしは何が欲しいのだろうかとずっとずっと考えてきた。でも分からない。分からないままわたしはずっとここにいる。


何も欲しくないわけじゃない、でも何かが欲しいわけじゃない。もっと言えば、生きたくないわけじゃない。でも、死にたくないわけじゃない。そんなことを口にしたら、あの人は何と言うだろう。わたしのことを、ぶつだろうか。


「…あなたの欲しいものはなに?」


ぽつりと声に出してみた。すると隣で眠っていた男の睫毛が少し震えて、ゆっくりとその重たげな瞼が開かれた。起こしちゃったね。悪びれず声に出すと、彼の瞳がわたしを捉える。


「眠れねェのかよい」


小さく笑って、彼のこめかみに唇を寄せる。力強くてどこもかしこも硬い彼の身体。だけど唯一柔らかなその耳朶を食んでみると、彼の手が子供をあやすように私の髪を梳いた。私の欲しいものはこれだろうか。甘い優しさ、かけがえのない体温。


「…明日は上陸だ、早く寝ろよい」


そう言う彼のことを愛しいと思う。とてもとても、愛しい。でも。


「…水を飲んでくるわ」


わたしは彼を本当の意味で欲しいと思ったことが一度もない。





海賊になろうと決めたのはあの人が海賊だったからだ。もしあの人が慎ましい農夫だったらわたしも農家の娘になっていた。もっとも、海と自由を愛するあの人が、村で畑を耕して暮らすなんて、あり得ないだろうけれど。


船員たちの鼾が漏れる廊下を、足を忍ばせて歩く。真夜中でも静まり返らないのがこの船のいいところで、海の呼吸そのものなのだとも思う。いつからわたしは海に抱かれることに慣れたのだろう。まだ何も知らなかった昔、村の丘から見つめていた海と、わたしが今いる海はまるで別物だ。海に憧れたことはなかった。でも、あの人が進みゆく海ならばさぞ素晴らしいのだろうと思ったのだ、確かにあの日。


目的地の扉にそっと触れると、中から低い声がした。瞬きの気配一つで全てを悟ってしまうような人だから、その声が呆れたようにわたしを招き入れるのは、予想通りだった。自然と口元が緩んでしまうのを覚えながら、なるべく静かに扉を押し開ける。


「…今更『眠れねェ』だなんて駄々こねる歳でも無ェだろうが」


わたしは小さく肩を竦め、座っている彼の足元にそっとすり寄った。こうしていると、何だか自分が愛すべき小動物にでもなった気がする。本当の自分は決してそんな可愛らしいものでなくても、この人の手の大きさや呼吸のスピードが、わたしに可愛い女を演じさせてくれるのだ。


「幾つになっても、オヤジには甘えたいの」
「グラララ…手のかかる娘だな」


さすがにあまりにも年甲斐の無い事を口にした気がして、恥ずかしくて額を彼の膝に押し付けた。普段この膝に触れるのはナース達の役目だけれど、夜半ばかりは彼女たちも眠っている。わたしはそれをずっと昔から知っているから、時折こうして独占するのだ。親子愛という、世界で最も美しく純粋な愛情を、一方的に裏切る真夜中。


オヤジ、と声に出すと、返事の代わりに髪が撫でられた。愛されていると実感するのと同じくらい、絶望的な孤独感でいっぱいになる。この人はわたしを愛してくれている。きっと自分の命だって惜しくは無いと言ってくれる程に。でもわたしはその愛が欲しいわけじゃない。そんな、マルコにも、エースにも、サッチにも等しく与えられているような美しい愛情が、欲しいわけじゃないのだ。


「明日は上陸だな」


体に直接響く声は子守歌のように優しい。今まで何度、この声に寝付かされてきたかしれない。絵本を読んでもらった経験こそ無いけれど、眠れないと言って甘える度に、彼は自分の旅の話を聞かせてくれた。それはどんな物語より面白かったし、誰と交わすピロウトークより官能的だった。


「島で飲み歩くのはいいが、騒ぎなんざ起こすんじゃ無ェぞ」
「…エースじゃないんだから、騒ぎなんか起こさないわ」
「お前の起こす騒ぎは規模こそ小せェが、後々面倒なことになるだろう」


呆れた笑い声に、胸がしゅんと萎む感じがする。彼が何を言いたいのか、本当はよく分かっている。以前、島で声を掛けてきた男と数日間2人で過ごし、わたしとしてはその島でのみの関係のつもりだったのに、相手はそう思っていなかったらしく、同じ船に乗ると言って聞かなかったことがあった。終いにはわたしがYesと言わないのならここで死ぬだのなんだのと言って短剣を振り回し始め、結局マルコの助けを借りてその場を収めたのだ。一夜限りの男との関係さえ上手く断ち切れないなら余計なことはするな、と、マルコには散々叱られた。





優しく名前を呼ばれ顔を上げると、薄暗い部屋の中で彼の目が優しく細められていた。


「お前の欲しいものは何だ?」
「……わからない」


幾度となく聞かれてきたことに、いつもの返事をすれば、彼は喉の奥で笑った。


「まったく、海賊のくせに無欲な奴だな」
「無欲なわけじゃないわ、ただ、」


言葉を切ると、彼は少し不思議そうにわたしを見たけれど、それ以上話そうとしないのを見てまたゆっくりと目を閉じた。


わたしの欲しいものはきっと永遠に手に入らない。
それをもしも口にしたら、あなたは一体どんな顔をするだろう。わたしはどんな顔をすればいいだろう。わたしの欲しいものは、ある意味ではもうこの手中にある。だけど、違う。だって全然満たされない。こんなに近くにいるのにどうしたって寂しさばかりが膨らんでいく。


「…そろそろ自分のベッドへ戻って寝ろ。明日は忙しいぞ」


彼はこのベッドで眠らせてはくれない。もうずっと昔、たった一度だけ、大嵐の夜に許されたことがあったけれど、それっきり。でもきっとそれでいいのだ。もし彼と一つのベッドで眠れる夜が来たとして、そしてまっすぐに朝を迎えてしまったら、それこそわたしは悲しみの海に溺れてしまう。


「オヤジ、大好き」


伝えても伝えても、永遠に伝わることのない想いを、わたしはまた別の男のベッドに持ち帰る。中途半端な体温のせいで、また唇を寄せてしまうかもしれない。そうしたら彼は、どうするだろう。いつものことだと気にも留めないか、呆れるか。


わたしが重ねる沢山の嘘に、あの少年は一体どれだけ気付いているだろう。それを考えると少し怖くなる。嘘をつかなくていい人が傍にいてくれればそれは酷く幸せなことだと思う。でも、嘘をつかなくていい人を私は守ってあげられない。わたしが守りたくて、愛されたいと思うのは、いつだって嘘を必要とする人なのだ。


お前の欲しいものは何だ?


それは唯一人あなたなのだという、こんな簡単な一言が、どうしてもどうしても届かない。