彼のくゆらせていた煙管のにおいが、静かに部屋に佇んでいる。真っ白い研究室には見たことのない色々なものがあって、並んだ試験管の中では絶えず何かがぶくぶくと泡を立てている。ここはきっと彼の頭の中そのものなんだろうなぁ。私には理解も想像もできない範疇。 「…ボクのことがそんなに嫌ッスか」 ずっと黙っていた彼がようやく口を開いた。彼は別に困ったふうでも、怒ったふうでもなく、至極落ち着いているように見えた。 「別に、手続き云々なんてものは簡単なことなんスよ。隊長であるボクが判を1つ落すだけでいい」 そう言って彼は、私が差し出した封筒を見つめた。我ながらなかなかの達筆だと思う、『異動願』の文字。死神を辞める気にはなれなくて、そもそも辞めたところで生きていくあてもなく、それでもどうしても彼から離れたかった私の選んだ未熟な手段。 「…それなら、…お願いします」 そう言うと、なぜだか口の中で砂の味がした。私が何か言う度にその砂は嵩を増すものだから、そのうち口の中が砂でいっぱいになってしまうだろう。そして何も言えなくなる。 彼は小さな溜息を吐いて、封筒を机の上に置いた。そしてそのまま、定位置である彼の椅子に腰かける。ギギ、と椅子が軋んで、彼はまた溜息を吐いた。向けられる視線が痛い。何も言わない、という武器を彼は存分に手なずけているのだ。一方の私は、何も言われないことに対する防御策を持たない。無言の攻防。いや、別に攻め合っても守り合ってもいないから、主観的にあえて言うなら、無言の拷問。 「…こんなことになるとは思いませんでした」 無言の拷問をやめた彼は優しげな顔をして言った。 「まさかアナタが十二番隊を辞めたくなるまでボクを恨むだなんて」 「う、恨むだなんて、」 「おや、違いますか?それなら、疎む、でどうッスか」 恨むとか疎むとか、そういうネガティブな気持ちを彼に対して持ったことはなかった。本当だった。私はいつも彼に憧れていたし、感謝していたし、名前を呼ばれるだけでその日の仕事を頑張れた。それ位彼は素晴らしい上司だったし、素晴らしく魅力的な、男性、だった。 衣擦れの音1つに馬鹿みたいに胸を鳴らして、彼の指先の動きや、あたたかさや、圧し掛かる重みや、そんなもの1つ1つに意味を探して、何て幸せなんだろうって思いながら彼の優しさに浸って、我ながら恥ずかしくなるような声を上げて、ああもうずっとこのままで居たいだなんて思ってしまって、それでも夜を越えればいつもの朝は来てしまった。何1つ変わらなかった。隊舎で顔を合わせた時の為に準備していた覚悟なんてものは必要なかった。あっけらかんとした朝の挨拶で、私は全てわかってしまったのだ。いや、初めからわかっていなかったことが愚かだった。 私は勝手に、裏切られたような気がしただけだ。 「…別に、あの夜のことは、今回のことには、何も関係ありませんから」 「…そッスか」 「お互い酔った勢いでしたし…、正直、ほとんど覚えてないんです」 そう言って微笑むと、彼も同じように微笑んだので安心した。こうやって、上っ面の微笑みだけを通して付き合っていくのが丁度いい男の人なんだ、この人は。深入りなんて望んではいけないし、何かを求めることすらしてはいけない。 「では、手続きの方、よろしくお願い致します」 ぺこりと頭を下げて踵を返した。研究室の床を行く私の足音だけが響いている。ああ、また無言の拷問?わかりました、とか、言ってくれてもいいのに。そうしたら今度こそ本当に私は全てを諦められるのに。 「サン」 扉に手をかけると、やんわりと名前を呼ばれた。 「あなたが思ってる程、ボクは酷い男じゃないッスよ」 私は体が固まりそうになるのを何とか堪えて、扉を開けた。吹き込んでくる風に一瞬目を細め、外に足を踏み出す。 「……失礼致します」 掠れそうになった声は彼にきちんと聞こえただろうか。私は返事を待たずに扉を閉めた。 しんとした空気にぽつぽつと、雨が混じり始めていた。 つま先ほどの嘘だった
(いっそ何一つあなたのことを理解できずに立ち去りたかった) |