雨の間隙


こういう言い方をすれば、卑怯だと詰られるに違いないけれど。だけどボクはどうしたって言っておかなければならなかった。美しく、賢く、敏感な彼女に、何の意味も持たせずに触れてしまうことについて。

「・・・ボクの思い上がりッスかね・・・」

なるべく柔らかく響くように言うと、彼女は伏せていた睫毛をそっと持ち上げてボクを見つめた。なんて綺麗な眼をしているんだろう、この人は。照れや躊躇いが十二分に見受けられるその瞳の奥には、しかし揺るがない何かが確かにたたえられていて、思わずボクから目を逸らした。

彼女はボクの背中に回した腕に力をこめた。急な通り雨で濡れてしまった髪から、ふわりと甘い香りがする。今この髪を撫でて、耳元に唇を寄せるのはとても簡単だ。彼女は全てをボクに許している、と、思うから。例えばボクが少々手荒に濡れた死覇装の帯を解いてしまっても、きっと彼女は睫毛を伏せたままでいるだろう。

「・・・思い上がりじゃ、ありません」

細く弱いその声はとても体に悪い。背筋がぞくりと粟立って、それが悟られないように、ボクは彼女を抱きすくめた。そうしてみると意外に彼女の体は小さく華奢で、死覇装の中身が直に伝わるようだった。

濡れ鼠になった男と女が、誰もいない広い家で抱き合っている。聞こえるのは雨音が地面を叩く音、それから彼女の心臓の音。ボクはいつものように「サン」と呼んでみせた。しかし返ってくるものは何もない。上司の呼びかけに部下が応じない。それは、二人がもうただの上司と部下ではなくなりかけている合図だ。

「・・・サン、ボクは、あなたが望むものはあげられませんよ」

今更何を言うのかと、一気に冷めた顔をしてくれないだろうか。そう心のどこかで願いつつ、それはあり得ないと知っていた。どれだけ謙虚に考えてみたって、彼女はボクが好きなのだ。それをのらりくらりとかわし続けて今日まで来たけれど、この通り雨がまずかった。ずぶ濡れになってどこか投げやりになってしまった気分が、彼女をここまで急き立てた。

「・・・わかってます」

彼女の声は泣いているみたいに揺れている。それはぞっとするくらい美しくて、呑まれてしまいそうになる。もう、今更戻ることなど出来ないのだと、認めざるを得なくなる。

ただひたすらに彼女は純粋なのだと思う。極端なことを言えば、美しさにも正しさにも興味が無く、多分、ただひたすらに、ボクのことが好きなだけなのだと思う。報われることが無いと分かっていて。自分が傷つくだけだということも分かっていて。それでも手を伸ばしてきた彼女にボクがしてやれることなんて、何も無い。あるいは、1つ、彼女の望みを聞き入れてやるしかない。

それが彼女の為にならず、ボクの為にもならず、ただ大きな過ちとして、二人の間に横たわることが分かっていても。

「・・・もう、好きすぎて、苦しいんです」

男は、好きじゃない女の人は抱けるけど、大切にしたい女の人は抱けない。傷つけたくない女の人のことは抱きたくない。だけど彼女はボクに傷つけられたがっている。大切にさせてもらえない。永遠に交わることのない互いの思いが足元でどろどろに溶け合う。ぬかるんだ足場で、先に不自由になるのは、彼女かボクか。ただの通り雨の筈なのに、雨音は未だに激しさを持て余している。