境界線を血でなぞり




別に、ただの思いつきといえばそれだった。ただ、味噌汁をかき混ぜるの背中を見ていたら、何となくじっとしていられなくなっただけだ。馬鹿な男を想い続けるあまりに、この歳になっても女に成りそびれてしまっている、不憫で健気な背中。

「大人にしてやろうか」

あの日、俺が言うとあいつは即座に顔色を変えた。最初は真っ赤になった。しかし俺が距離を詰め、あいつの手首を掴み、後頭部に手を宛がうと、途端に青ざめた。体が強張り、掴まれた手の指先は微かに震えていた。

「や、めて」

聞いたこともないような弱々しい声だった。瞳の奥が恐怖に揺れて滲んでいた。

「やめて、高杉・・・、冗談でしょ?」

そう言って無理に笑おうとするあいつの唇を、俺は己の口をもって塞いだ。固く引き結ばれた唇に割り入ると、あいつはバタバタと足を動かしておれの足を蹴ってきた。煩わしくなり、そのまま壁に背中を押し付ける。痛い、という声が上がったが、そんなものに構う必要は無かった。そのまま着物の襟に手を掛ける。俺の手が冷たかったのか、あたたかな肌に直に触れると、あいつは大げさな程身震いをした。

それから先は簡単だった。上手く声を上げられず、それでも逃げ出そうともがくあいつを力ずくで封じて、必要最低限の分だけ着物を肌蹴させていった。しかし誰にも触れさせたことのないあいつの肌を見る度、ちらちらと、何か面倒な感情が脳裏をよぎって手の動きが鈍くなった。

きっとこいつだって、早く大人になりたくて仕方なかっただろう。好きな男の手で自分が変えられていく夜を、甘く夢見たこと位あったと思う。好きだと言えなくてもいつかは気付いてくれるだろうと、いじらしい視線を送ったり、なるべく意味を持たせぬようにして男の体に触れてみたり、そんなことは日常茶飯事だったはずだ。まさか、そんな自分の喉笛に、こんな風に牙を立てられる日がくるとは少しも思わずに。

「―――っ!」

余計なことを考えていて、隙が出来ていたのだろう。あいつは俺の手首に勢いよく噛み付いた。尖った歯が食い込む痛みに、思わず手を退けてしまう。あ、しまった。そう思った次の瞬間には、あいつは素早く俺から距離をとっていた。乱れた着物の襟をかき寄せ、俺を睨んでいる。その頬には涙が流れていた。

「・・・い、言わない、から」

あいつは震える声で言った。俺は手首の歯型から、血が滲み出すのを感じた。

「誰にも、言わないから・・・だから、高杉も言わないで」

そう言って、あいつは床に落ちていた自分の簪を拾い上げると、乱れた着物もそのままに台所を出て行った。

滑稽だった。実に滑稽だった。俺は自分のくだらなさを笑った。恐怖に引きつったあいつの顔を思い出すと、首筋がぞくりとした。しかし、「言わないから」と言ったあいつを思い出すと、胸の中で何かが暴れだしそうになった。自分の薄い胸を掻き毟りたくなった。

言やァいいじゃねェか、。俺は思った。ヅラにでも、銀時にでも、誰にでも言やァいいじゃねェか。俺のしたことを全て話せばいいじゃねェか。そうすりゃ、非道な俺を簡単にここから追い出せる。それなのに何で、このことを無かったことにしようとするんだ。無かったことになど、なる筈がないのに。

さっきは薄っすら滲んでいただけだった手首の血が、たらたらと流れ始めていた。これだけ深く噛まれりゃ、この歯型はなかなか消えないだろう。そう思ってぼんやりしていると、玄関の引き戸が開かれる音がした。ヅラが遊郭から帰ってきたのだ。

「・・・高杉か。こんな所で何をしている」
「・・・別に」

台所に入っきたヅラに見られぬよう、俺は手首を隠した。言ってやりたいことが喉まで出掛かっていた。しかし、味噌汁の鍋を覗いているヅラの横顔を見ていたら、馬鹿馬鹿しくてやはり笑い出しそうになった。

「ヅラ、お前は本当に、国のことしか頭に無ェんだな」

俺が言うと、ヅラは怪訝そうに眉を顰めた。俺はそれ以上何も言わず、台所を後にした。