約束の時間は18時。 左手首の腕時計を確認するのは3度目だが、まだ18時を数分過ぎた頃。元より時間にルーズな男だから、時間ちょうどに現れるとは思っていない。しかし今日のような日はいつものように待たされるのが苦痛だった。温いコーヒーを口に運び、足を組み替える。 ラウンジは普段通りのざわめきに満ちていて、隊員たちが楽しそうに談笑している。隣のテーブルでは、知らない若い隊員が2人、タブレットを見ながらああだこうだと議論を交わしていた。B級の隊員なのだろう、どうやらランク戦の反省会をしているらしかった。 今日は、遠征部隊が10日間の任務を終えて帰還する予定の日だ。遠征の存在自体は周知のものだが、その詳細や日程などは広くは知らされない。それなのに一隊員である私が帰還する時間帯まで知っているのは、恋人が遠征に参加しているからだ。今日の18時までには帰還し、その後の業務も終わっているだろうと聞いていた。だから、普段はあまり訪れないラウンジにやって来て待っているのだけれど、ぼんやりしている間に、もうすぐ18時半になろうとしている。そろそろ行くか、と、隣の席の隊員たちが立ち上がった。その内の一人と一瞬目が合って、すぐに逸らす。次第に居心地が悪くなってきた。 紙コップに少しだけ残ったコーヒーを喉に流し込む。完全に冷めた安っぽい苦みだけが舌に残る。あとどれくらいここで待てばいいのだろうかと、また時計に目をやろうとした時。よく知った笑い声が背後で聞こえて、私は勢いよく振り返った。 「だーかーらー、そういうんじゃないですって!勘繰るのやめて下さいよ!」 「何だよ、照れんなよ出水」 「だから違いますって!」 2人の男がじゃれあいながらラウンジに向かって歩いてくる。身長差と親しげな雰囲気のせいで、彼らはまるで兄弟のようだ。意地の悪い兄と、からかわれやすい弟。そう思って見てみると何ともかわいらしい。 「あ、さん!」 先に声をかけたのは出水くんだった。そこで私も初めて気が付いたかのように、素知らぬ顔をして手を振った。待ちくたびれたことなどおくびにも出さず、微笑んでみせる。手を振り返してくれる出水くんの横で、私の恋人―太刀川慶は、普段と変わらぬ表情でまっすぐに私を見ていた。そのまなざしに捉えられて、密かに緊張する。 「2人とも、お帰り。お疲れさま」 お帰りと言いたくて、ここで待っていた。その言葉にあり余るほどの想いを込めて言いたかったのだけれど、いざ声にしてみると、存外にそっけない口調になってしまった気がする。しかし出水くんは気にすることなく、にこにこと近寄ってきた。 「さん、お迎えに来てくれたんすか?やっさしー」 「別にお前を迎えに来たわけじゃ無いけどな」 私が答えるより先に、太刀川がそう言い放つ。 「出水もこの後カノジョと会うんだろ?早く行けよ」 「えっ、出水くん、彼女できたの?おめでとう」 「だーから、違いますって!まだそんなんじゃないんですよ!」 若干顔を赤くして否定する出水くんは、本当に太刀川の弟のように見えるし、私としてもかわいい弟のように思える。今時の高校生の恋愛事情は知らないが、2人の話を察するに、どうやらいい感じの女の子がいるのだが、出水くんが決定的な言葉を言えぬまま結構な時間が過ぎているらしかった。 「ま、出水も頑張れよ。草食系男子は意外と流行ってないみたいだけどな」 「わかってますよ!じゃ、おれ帰ります。さん、お疲れ様です」 「あ、うん、お疲れ様!」 気を利かせてくれたのか、出水くんはあっという間に立ち去って行った。その姿がラウンジから完全に見えなくなると、隣に立つ太刀川が小さく息を吐いた気配がした。急にその存在感を肌に感じて、また緊張がぶり返す。 「待たせたな」 「・・・うん」 「鬼怒田さんの話が長くてさ。あー腹減った。俺たちも帰ろうぜ」 そう言ってさっさと歩きだしてしまうので、私は慌てて空になった紙コップを捨て、その背中を追いかけた。後ろで、「A級1位の太刀川さんだ」「出水さんもいた」等という、ミーハーな声が聞こえていた。 外に出ると、濃紺の空に星が瞬いていた。冬に移ろうとする空気はもう冷たくて、薄手のコートの襟口を寄せる。人気のない道はとても静かだった。 「10日ぶりだけど、ずいぶん寒くなったな」 大して寒がりもせずに太刀川が言う。 「昨夜の雨で急に寒くなったのよ」 ポケットにしまおうとした右手を、ぱっと太刀川に握られる。普段は滅多に手を繋ごうとしないのに、珍しい。でも伝わる体温が心地よくて、ついでに少し太刀川のほうに寄り添った。太刀川はいつも体温が高い。 「・・・遠征、どうだった?」 「んー?まあいつも通りだよ。ずっとトリオン体だったから、別に疲れてもないし」 飄々と言ってのけるけれど、実際のところはそんな簡単なものではないはずだ。遠征先ではベイルアウト機能が通常時とは異なる仕様になっていると聞いている。完全にベイルアウトが不可能というわけではないのだろうが(そんな危険なことをあの鬼怒田開発室長が許可するとは思えない)。ただ、私はそのことを風の噂で聞いただけで、太刀川から直接教えられたわけではない。もし全ての事実を知られたら遠征に行くことを反対されると思っているのだろう。例え私が何と言っても、自分の欲望には忠実に動く男のくせに。 「あ、太刀川、ご飯どうする?」 黙って歩いていると、太刀川が迷いなく私のマンションの方に向かおうとしていたので、慌てて声をかけた。 「せっかく帰ってきたんだし、ちょっといいものでも食べに行く?」 「別にいいよ。お前の家にも何か食べるものくらいあるんだろ?」 「何でもいいなら、昨夜の残り物くらいはあるけど」 それでいいよ、と言って、太刀川はそのまま歩き続ける。何となくこうなるかもしれないと思って、昨日の夕食は少し多めにシチューを作ってあった。 部屋に着くとすぐ太刀川はジャケットを脱いで、ソファに深く腰掛けた。太刀川がいると、そう広くはないこのワンルームマンションがもっと狭く感じられる。脱ぎ捨てられたジャケットをハンガーにかけてやってから、洗面所で手を洗い、早速キッチンに立つ。シチューを火にかけようとしたところで、「おい」と呼ばれて振り返った。 「ひとまず飯は後でいいぞ」 「え?お腹すいたって言ってたじゃん。あ、先にお風呂にする?」 「まあどちらかといえばそうだけど・・・ちょっとこっち来いよ」 そう言って向けられた眼差しの熱さに気が付いた。急に体が緊張する。ゆっくりとソファに近付くと、待ちきれないというように太刀川に手首を引っ張られて、そのまま腕の中に倒れこんだ。薄手のデニムシャツに頬を押し付けて、太刀川の鼓動に耳を澄ませる。温かい体だ。背中に回された腕の心地よい力強さも、何もかもが10日前と何ら変わりなくて安心する。それを本人に言ったら、たった10日間で何か変わるほうがおかしい、と笑われてしまうのかもしれないけれど。 髪を撫でられる優しい手つきで顔を上げるように促され、視線が絡み合う。体はしっかりと密着したまま、私から口付けた。少し乾燥した唇も、食みあえばすぐに潤い始める。リップ音を立てて唇を離すと、今度は太刀川の方から噛みつくようなキスをされた。厚い舌が口の中に入ってきて、戸惑いながらもその舌を吸う。唾液が零れそうになるのも気に留めず、しばらくの間そうしていた。 呼吸が苦しくなって体を引くと、太刀川もするりと力を緩めてくれた。感情の表れない黒い瞳に、くっきりと私が映り込んでいる。いとおしい。たった10日間。されど10日間。ただ会えなかっただけの10日間ではない。目の前の恋人は、未知の世界で死線をくぐり抜けてきた男だ。恐ろしさよりも好奇心を盾にして戦ってきた、誰よりも愛しい男。 「太刀川・・・」 「ん」 太刀川の手はするりと私のニットをめくっていた。大きな手が、直に背中に触れている。指先はブラジャーのホックを何度も掠めていた。この留め金が外されたら、後のことはもう目に見えている。だけど太刀川は強引なことはしない。きっともう一度キスをした後に、私に許可をとるだろう。絶対にNOとは言えない、低く甘い声で。 「太刀川、お腹すいてないの?」 「・・・何だよさっきから。お前が腹減ってんのか?」 「そうじゃないけど・・・」 「焦らすなよ」 そう言って太刀川はまた唇を重ねてきた。ちくちくと触れる顎鬚が、痛いのに気持ちいい。10日間、飢えていたのは私だけではなかった。言葉にされなくても十分に伝わる。会いたかったのは私だけじゃなかった。太刀川が帰ってきたら、早く触れてほしいと思っていた。本当はさっき、ラウンジで会ったときから、ずっとこうしてほしいと思っていた。 「太刀川、お帰り。本当に、お帰り」 ラウンジで「お帰り」と言ったときは、うまく伝えられなかった。私がどれだけ待っていたか、どれだけ会いたかったか。涙が出そうなくらい、帰ってきてくれて良かったと思っていたこと。太刀川は一瞬目を瞠って、少し笑った。 「ん、ただいま」 お帰り。ただいま。愛してる。それらの言葉が溢れて、私たちはそのままソファで抱き合った。狭くて自由に動けないことさえちょうどよかった。きっとそのうち、太刀川はまたあちらの世界へ行ってしまうんだろう。私に心配をかけないようにしながら、それでも欲望には忠実に。だけどそんな太刀川が好きなのだから仕方がない。 「俺、ずっとトリオン体だったから、今日は全然眠くないぞ」 馬鹿みたいなことを言って、笑いあう。部屋の電気は点いたまま。お腹が鳴ったら、食事にしよう。 切り取る密室 |