せめて名を付けて




解かれていたリボンを襟口で結び直していると、薄手のカーテンが外側から開かれた。覗いたのは養護の先生で、眼鏡の奥の目が優しげに細められる。

先生の後ろにある窓からは、藍色に滲んだ空が見えた。もうすっかり日が暮れている。確かここに横になったのは6限が始まる前だったから、結構な時間をここで眠っていたことになる。

「随分顔色良くなったわね。歩いて帰れる?親御さん、呼ぼうか」
「平気です。ただの貧血だし、慣れてるし」
「そうみたいね。子供の時から貧血持ちなんだって?」

誰に聞いたんですか、と口にするより早く、先生の後ろからひょこりと見慣れた茶髪の少年が顔を出した。少年、というには些かもう出来上がってしまっている気もするが。彼はこの数年でとても男らしくなったと思う。孝ちゃん、と声に出そうになるのを密かに飲み下す。

「もう元気そうだな。歩けるんなら帰るべ」

先生ありがとうございました。
彼は穏やかな表情で、礼儀正しく頭を下げた。
保健室のドアを開けて待っている彼の手には、教室に置いたままになっていた筈の私の鞄があった。気をつけて帰りなさい、と声を掛けられて、私も養護の先生に頭を下げた。少しだけ慌てている気持ちは、きっと先生に気付かれていた。




スカートを揺らす風は、いつの間にかうんと冷たくなっていた。秋という季節はとても短いと思う。私の少し前を、ゆったりと歩く背中。色素の薄い髪は、夜になると美しく銀色に光って見える。男の人みたいな背中だな、と思う。彼を虜にするバレーというスポーツは、少年の体をこんなにも変えてしまうのか。幾度、こうしてこの畦道を歩いたか知れないけれど、今日は一段と彼が男に見えた。それはときめきでもあるし、恐ろしさでもあった。

二人分の不揃いな靴音が、少し乱れる。気付いて顔を上げると、彼が立ち止まってこちらを振り返っていた。暗がりであまりよく見えないけれど、その表情はいつもの柔らかな彼のそれだった。

「まだ具合悪い?」

え、と声に出すと、彼が眉尻を下げた。随分のんびり歩いてるからさ。そう付け足した彼の言葉の色は、やはりとても優しい。体つきは変わっても、中身は何も変わらないままなのだと気付いて密かにほっとする。首を横に振れば、彼はまた小さく笑って歩き始めた。

彼と私は、絵に描いたような幼馴染の関係だった。幼い頃はよく家族同士で旅行やキャンプに出かけた。小学校に上がってもしばらくその家族ぐるみの付き合いは続いたが、中学に上がる頃になると、学校ではお互いを苗字で呼び合うようになった。そうしよう、と決め合ったわけでは決して無い。しかし、私の女友達が彼のことを好きだと言い始めたあたりから、なんとなく、孝ちゃん、とは呼べなくなったのだ。

彼は、自覚のないところで女の子達から好かれるタイプだった。めちゃくちゃモテるという人では無かったけれど、いつもクラスの何人かは、彼に想いを寄せていた。私は彼女たちの視線にとても敏感だった。だから今回のことだって、私はすぐに気付いていた。

「今日、自主練してないの」

彼はいつも正規の練習が終わったあと、居残って部員と練習をしているのだ。だからこんな時間に帰ることは珍しい。そう思って背中に声を掛けると、彼は歩みを止めぬまま、あー、と曖昧に返事をした。

「まぁ、たまにはいいかと思ってさ」

きっと私が倒れたと知って、自主練をせずに来てくれたのだろう。それなのに、そうとは言わないから、胸がつんとなる。こういう優しさを手懐けている男の子は少ないと思う。だから甘えて、つい意地悪なことを言いたくなる。

「私、一人で帰れるよ」
「え?何だよ、ここまで来といて」
「せっかく練習が早く終わったなら、彼女のところに行かなくちゃ、でしょ?」

瞬間、彼はぴたりと歩みを止めて、やけにゆっくりと振り返った。怒っているかと思ったのだけれど、そうではなかった。ただ困ったように薄い唇を歪ませていた。

「・・・情報早いな。誰に聞いたの」

大地?旭?と、よく知る友人の名前が飛び出すも、私は首を振った。

「誰にも聞いてないよ」
「なんだ・・・カマかけたのかよ。まんまと嵌められた」

彼が立ち止まっていたので、私は彼の隣に立った。背中にある月が、畦道に二人分の影を細長く並ばせた。

「ねえ、どんな子なの?教えて」
「そんなの別にどうだっていいだろー」

その声色に少しでも怒りや苛立ちが滲んでいたらよかったのに、彼はどこかくすぐったそうに目を細めて笑っていた。なんだ、ちゃんと幸せそうだ。そう思うと笑顔になれそうなものなのに、私の唇は強ばって上手く言葉を続けられなかった。

知っている?あの子があなたに好意を寄せ始めたのは、あなたがあの子の存在を知るよりずっと前からなのよ。体育の授業で初めて見たときから、気になっていたみたい。とても可愛くて、控えめで、あなたの横に立つのがよく似合う子だよね。だから私は分かっていたの。あなたもあの子のことを知ったら、きっと恋をするだろうって。

「・・・まあ、でも、お前には礼を言おうと思ってたんだよ」

彼は前を向いたまま、呟くように言った。

「その・・・彼女も、貧血持ちでさ。昔からお前が貧血で真っ青になるのをよく見てたから、俺も対処法なんかが身についてさ。それが役に立ってるんだよ」

色白で華奢なあの子がふらりと体を揺らす様は、容易に想像がついた。そして、転んでしまわないように先に座らせて、首元を締める細いリボンを慎重に解いて、冷たくなった手足を優しく摩る、心配そうな彼の顔まで浮かんできた。本当にお似合いだ。実際に見たわけでもないその光景が、あからさまに私の気持ちを悲しくさせた。

絶対に言えない。言える筈がない。いつか自然な流れで彼と手を繋ぐようになるのは、私なんだと思っていたことなど。こうして誰かに気恥かしそうに語られる彼にとっての女の子が、私でありますようにと、密かに願い続けていたことなんて。

「・・・孝ちゃん」

頭の中では毎日呼ぶけれど、声に出したのは久々だった。でも彼は気にした様子もなく、なに、と返した。彼にとって私は幼馴染でしかなくて、久々の呼び方に驚くこともないのだ。こんなに優しくしてくれるのに、恋愛という枠の中には決して入れてもらえないなんて、なんて救いようのない想いだろうか。

「今日はごめんね、ありがとうね」

溢れ出しそうになる何かを堪えて、私は俯いたままそう言った。
しかし彼はそれに気付くことなく、やはりいつもの優しげな声で、「元気なら何よりだよ」と小さく笑った。