王都に呼び出された帰り、エルヴィンは1軒の雑貨屋の前で馬車を止めさせた。もう日は暮れており、のんびりしている暇は無い。エルヴィンは「少し待っていてくれ」と言いおくと、迷いなく店に入っていった。一体どれだけ待たされるのかと苛立ちながら足を組み替えたが、エルヴィンはほんの1分程で帰ってきた。その手には紙袋が携えられている。

「・・・高級なインクでも仕入れてきたか」

馬車が動き出してから、俺は進行方向を向いたまま問いかけた。特に買い物の内容に興味があったわけではないが、何も聞かないのも変かと思ったのだ。エルヴィンはややあってから、「さすが鋭い」と僅かに目元を細めた。

「リヴァイ、お前に頼みがある」

なぜ俺が。というのは、口にせずとも十分顔に出ていただろう。
しかしエルヴィンは意に介さず、俺にその紙袋を託したのだった。


翌日、午後の訓練に出る前に、俺はその部屋を訪ねた。兵士たちが恥じらいもなく『女神のサンクチュアリ』などと呼ぶ部屋。中から出てきた女神 ― は、明らかに寝起きと分かる声で俺を迎え入れた。

エルヴィンと似た髪色のせいか、の纏う空気はエルヴィンのそれとよく似ている。人を惹きつける何かがある一方で、人との距離を縮めようとはしない。人生に対する覚悟が決まっている人間特有のものだろうか。決して人を拒絶するわけではないのに、安易に踏み込むことには常に警鐘を鳴らしているような。

静かに分析していると、は不思議そうにくたりと首を傾げた。確かエルヴィンと変わらない年齢だと聞いていたが、その首筋は生娘のように白く透き通っている。

「リヴァイ、あなたがここに来るなんて珍しいわね」
「・・・エルヴィンの使いだ。これを渡すようにと」

紙袋を差し出すと、はぱっと目を輝かせて受け取った。ガサガサと音を立てながら取り出されたのは、見慣れない銘柄の煙草。もともと嗜好品である上に、珍しい銘柄とくれば、なるほど確かに王都でしか手に入らない代物だろう。

溜息が漏れる。健康でいなければならないはずの医者に、このようなものを与えるなど。が煙草を嗜むことは知らなかったが、その細い指が煙草を挟む姿は容易に想像がついた。普段、煙草の香りをまとっていないことを考えると、ヘビースモーカーというわけでもないのだろうが。

「・・・エルヴィンは、お前には甘いな」
「彼は基本的には甘い男よ」

呆れてそう言った俺に対して、煙草の箱を眺めていたはすぐに言葉を返した。

「でも甘いところを隠さなきゃいけないの」

その物言いが、まるで自分はエルヴィンの何もかもを理解しているのだとでも言いたげで、俺の眉間の皺は深くなった。とエルヴィンの関係性などどうでもいいはずなのに、の横顔を見ていると、興味を持つなという方が難しい。いい歳をした男女だから、何かあっても、何もなくても、別におかしな話ではないのだが。

これ以上ここで話している理由は無くなったのに、俺の足はなぜか動き出さなかった。目の前で燐寸を擦り、煙草に火を点すの指先に、視線が留まる。命を救う女の指先は、器用そうな形をしていた。

「リヴァイ。エルヴィンは甘い男だって聞いて、どう思った?」
「・・・・・・」
「可哀想な男だ、って、思った?」

そんなことは決して思っていなかった。しかしがそう言うのを聞くと、分からなくもない、と思ってしまった。エルヴィンが本当に、の言う通り甘い性質の男なのだとしたら、今のあの姿はあまりに気の毒ではないだろうか。

は俺のその思考を察したのか、くすりと声に出して笑った。それは全てを理解して慈しむような笑みだった。およそ地下街では見たことのないそれ。

「エルヴィンは、あなたのことだけは絶対に失いたくないと思っているのよ。口には出さないかもしれないけど」
「・・・気持ちの悪いことを言うな」

俺がそう言い返すのは分かっていたとでもいうように、は小さく笑った。この女の、全てを見透かしているような佇まいに、酷く苛立つことがある。余裕ぶった姿勢を崩さないところが、無性に気に入らないときがあるのだ。

「・・・確かに届けたぞ」

気が苛立ち、俺は踵を返した。ドアノブに手をかけると、背中の後ろで「ありがとう」と声が掛かったが、それには言葉を返さず部屋を出た。



その夜の幹部会議が終わったあと、エルヴィンは俺だけに部屋に残るよう命じた。隣でハンジが「お説教かな?お気の毒だね〜」と茶々を入れてくる。俺がそれに舌打ちを返すと、ハンジはまたおどけながら、数名の兵士と共に部屋を出て行った。静かになった会議室に、急に緊張感のある空気が流れる。エルヴィンは手元の資料を簡単にまとめ終えると、意味ありげな笑みをふっと浮かべた。

「・・・なんだ、本当に説教か?」

説教される心当たりも、そもそも筋合いもないのだが。調査兵団に入団してしばらく経つとはいえ、何の地位もない俺を、エルヴィンはなぜかこの幹部会議とやらに呼びつける。それだけでも俺はうんざりしているというのに、ここでこの男と1対1で向き合うことほど面倒な時間はない。テーブルに足を乗せたい気持ちをこらえて、座ったままエルヴィンの方を睨みつけた。

「礼を言おうと思っただけさ」
「・・・礼?」
「今日、きちんと届けてくれただろう」

エルヴィンはそう言って、ジャケットの内ポケットから、昼間に見た煙草をすっと取り出した。なるほど、全てあの女にくれてやったわけではなく、自分の分も密かに確保していたのか。何か、子供じみた悪戯に加担させられたようで鼻白む。

「・・・用はそれだけか」
「これは君の分だ、リヴァイ」

煙草が放物線を描いて投げ寄越され、反射的に受け取った。僅かに体温のある小さな箱。容易くは手に入らない嗜好品。エルヴィンは俺を見て、ニヒルな笑みを浮かべていた。苛々する。

「いらねえよ、こんなもん」
「まあ、そう言うな。一足早いが餞別だ」

俺が眉を顰めると、エルヴィンは静かに立ち上がった。薄暗い明かりの中でも、その目の色はわかりやすく澄んでいる。

「君に、兵士長というポジションを考えている」

感情の読み取れない、至極淡々とした声色だった。俺は聞き慣れないその言葉を鸚鵡返しに口にする。

「団長である俺と、ハンジたち分隊長の間に位置するものだ。君には、今後入団する兵士たちから羨望される兵士になってもらう」

エルヴィンがこの調査兵団の団長になったのは少し前のこと。元々、組織内でエルヴィンへの評価はすこぶる高かったらしく、今の組織はまるでエルヴィンの手足のように動いている。それだけの人望がある男が、なぜ俺のようなものに地位を与えようとしているのか、さっぱり分からなかった。俺はまだ、調査兵団を信用したわけではないというのに。

「・・・断る。俺は面倒なことは御免だ」
「面倒なことはもうほとんど終わっている。昨日、王都に君を連れていったのは、憲兵団に君を認めさせるためだ。いつまでも地下街のゴロツキと呼ばれていたのでは困るからな」

確かに昨日は憲兵団の師団長だと名乗る男に会わされたが、改まったような雰囲気でもなく、簡単に互いを紹介されただけだった。差し出された手を一応握りはしたものの、滲み出る俺への嫌悪感はしっかりと伝わってきた。帰りの馬車でその男とエルヴィンが同期なのだと聞いたときは、妙に納得がいったものだ。

「兵士長になる男ならば、とも親しくなっておいてもらわなければ困る。だから今日、君にそれを届けさせた」
「・・・あの女と何の関係がある」
「彼女がここで何と呼ばれているかは知っているだろう」

調査兵団の第一医師であり、兵士たちが『女神』と呼ぶ女。女神だから親しくしておけというのは、辻褄が合わない。別にあの女は神でも何でもない。もっとも、たとえ神とやらがいたとしても俺はそんなものは信じないが。

エルヴィンは静かに息を吐き出して、窓の方に目をやった。

「リヴァイ。これまで調査兵団は、犠牲を出さずにはいられない組織だった。君の仲間も、人類の為に犠牲になった。俺も決して犠牲を軽んじているわけではない。しかし、彼女は、犠牲になることは勿論、調査兵団自体を恨んでいる」

人として、それは至極当然のことだろう。しかし、それならばなぜ、このような組織に彼女は身を置いているのだろうか。その理由がもしこの男に起因するものだとしたら。彼女が見せるエルヴィンへの揺るがぬ信頼は、俺の想像など追いつかぬほど、深いところにあるのではないか。

「調査兵団を恨みながらも尽力してくれている優秀な医師だ。いずれは、君の部下や、君自身や、俺を、救ってくれるかもしれない。そんな彼女と兵士長になる君の仲が悪くては困るんだよ」

俺の返事を待つことはなく、エルヴィンは部屋を出て行った。揺れるろうそくの明かりが、古いテーブルの木目を照らしている。俺は長い溜息をついて、渡された煙草をポケットにねじ込んだ。俺にこんなものは必要ない。サンクチュアリと呼ぶにはあまりに質素なあの部屋に届けるために、俺はゆっくりと立ち上がった。



祈りの園


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