真夜中の町に、火事を告げる鐘が鳴り渡る。 音を立てて燃える赤い火の様子は、閉じた瞼の裏でも容易に想像ができた。密集した町並みはひとたび火が点くとあっという間に燃え広がってしまう。住人たちは火事に慣れていて、駐屯兵団と共に消火活動に参加する習慣も根付いている。実際、そう近いところが燃えているわけでもなさそうなのに、外は消火に向かう人々の声で騒がしくなり始めていた。 ナイルは暫く黙って窓の外を眺めていた。しかし火事の場所がここから充分離れていることを確認すると、ゆっくりとベッドに戻った。毛布をめくると、中の女があからさまに寒がる素振りをしてみせる。大げさな、と思いながらも、ナイル自身もいそいそと毛布にくるまった。 「あなたは行かなくてもいいの、ナイル?」 女がそう言って寄り添ってくる。ナイルが片腕を伸ばすと、女はその二の腕に頭を乗せた。そのまましっとりとした柔らかな髪を指先で弄ぶ。そうして髪を触っている内に女が眠りに落ちてしまうことも、そしてその寝顔を眺めることに、ナイルが罪悪感とたまらない安堵を感じることも、全てが二人の自然の一端だった。 「火元は遠そうだし、大丈夫だろう」 「そう」 「・・・そもそも俺が行ったところで、憲兵団は暇だ何だと言われるだけだ」 ナイルは時折こうやって、投げやりな態度をしてみせる。女はそれが嫌いだった。憲兵団の師団長として、組織や立場を守るために色々なものを犠牲にしてきたくせに、今すぐにその全てを捨ててもいいのだと強がる。その見え透いた虚勢を見ていると、こうして同じベッドに横たわっていることが、馬鹿馬鹿しく思えてきてしまう。 女は毛布の中で、自分の足をナイルに絡めた。ベッドの外に出ていたせいで、ナイルの体は少し冷えている。さっき自分をわざと貶めるようなことを言ってみせた目の前の男が、実のところ、誰より傷つきやすい性質であるのを知っている。だから、どんなに今の自分が馬鹿馬鹿しく思えても、女はこの時間を放棄しようとは考えない。それはきっとナイルも一緒だった。 鐘の音はまだ鳴り続いている。きっと今、多くの人がベッドで眠れずに溜息をついているのだろう。静まり返った真夜中なら上手く秘密を隠せそうなものだが、こうも騒がしくては、後ろめたさが露わになってしまいそうで恐ろしい。女がナイルにいっそう体を寄せると、ナイルは無言でその小さな頭を抱きしめた。 普段は調査兵団の女神とまで呼ばれている女が、月に一度、憲兵団本部に顔を出す日に、その師団長と夜を共にしている。もう10年以上続く関係。ナイルが結婚して家庭を持っている今も、頻度は減ったとはいえ、終わらない。もしこのことが露見してしまったら、お互いに多くのものを失うだろう。 ナイルには、家庭を捨てるつもりはない。それは女にも伝えてあった。ナイルが結婚したばかりの頃は、さすがに暫く会うことはなかった。しかしやがて求め合ってしまった。今夜だけだ、今夜で終わりだ、と、ナイルは何度も決心をした。それなのに、抱き合った翌朝はもうその言葉が紡げない。女はそんなナイルの狡さを見透かしながら、許していた。そうやって何の変化も無いままに、もうずっとこの関係が続いている。 昔は、本気でこの女を自分の妻にしようと思ったこともあった。ただ、女にそのつもりがなかった。だからというわけではないが、ナイルは別の女性と結婚した。そのときの女の目が忘れられない。嫉妬ではなかったと思う。きっと女は、ナイルが、戦うことから逃げたと判断した。それを責めたい気持ちと、安堵する気持ちが、混ざり合ったような表情だった。 気まぐれにナイルが女の額に口付ける。眠りに落ちかけていた女は、幼子がぐずるように、その額をナイルの首筋にすり寄せた。そのままもう一度かき抱いてしまいたい気分になったが、眠そうな女の様子に、ナイルもつられて瞼を閉じる。日頃はあまりよく眠れないと言っている分、こうして自分の腕の中にいる間はゆっくりと眠らせてやりたかった。 ナイルが家庭を捨てられず、かといって女を手放すこともできない卑怯な男であることで、女は精神面でナイルより優位に立っている。しかし女も簡単にナイルを捨てはしない。ナイルにはその確信があった。何一つとして失ってやるつもりはないが、それは女も同じなのだ。 ふと思う。もしも今、こうして二人が眠りに落ちている建物が火事になってしまったらどうするだろうか。生きるために、裸で逃げ出すだろうか。でもそうすると二人がここにいたことが知られてしまうから、いっそのこと、このままここで死のうと思ったりするのだろうか。焼け焦げた二つの死体を見て、市民はどう思うだろうか。ナイルの妻は。子供は。そして、エルヴィンは。 ナイルは、腕の中で寝息を立てる女の背中を撫でた。痩せた体。結婚という道を選ぶことなく、自分の足だけで生きていくことを選んだ女に、すさまじい尊敬の念を覚える。女神という呼び名を嫌ってはいるが、やはり女神であり続けてもらわなければならない。調査兵団にとっても、ナイルにとっても。 鐘の音はいつの間にか聞こえなくなっていた。鎮火されたのだろう。死人が出ていなければいいが。だが、もし、その焼け跡から名もない男女の死体が出てきたら、聞いてみたいと思う。死をもって二人の秘密を守ることは、どれだけの幸福なのか、と。 |