壁外に出て間もなく降り出した豪雨により、その日の計画は頓挫した。上手くいかないことには慣れているが、それにしたって運が悪い。ハンジは頭上を覆うどす黒い雲を睨みつけて、舌打ちを繰り返しながら馬を走らせた。今日の為に描いていたプランは、今日この日に実現してこそ価値あるものだった筈だ。

壁に上がってくる兵士たちの表情はいずれもフラストレーションを抱えたそれだった。壁を出る前の悲壮な覚悟も、こんな雨ごときに易々と流されてしまう。どれだけ訓練をしてどれだけ立派な作戦を立てても、いつも何者かに自分たちは振り回されている気がする。雨を吸い重くなったジャケットを、今すぐにも脱ぎ捨てたい。苛々した気分を隠そうともせず、ハンジは声を上げた。

「エルヴィン!雨が止んだら、またすぐに出るんでしょ!?」
「今日の計画は中止だ、ハンジ」

冷静沈着な上官がそう答えるであろうことは分かっていた。壁外調査は文字通り命懸けだ。たった一つの条件が狂っただけで全ての結末が変わりうる。自らを賭博師だと揶揄するエルヴィンでさえ、引き返すことの出来る危険は避ける。ハンジとてそれはよく分かっているのだが。どうにも、自分たちの意思で動いている筈なのに、首根っこに繰糸が取り付けられているようで、もどかしいのだ。





激しい雨は夜になっても雨足を弱めぬまま、兵舎の薄いガラス窓を叩きつけていた。
エルヴィンは今日の報告をする為に、早速内地へ出向いている。中止になった壁外調査の分が次にいつ行われるのか、日程はまだ決まっていない。実際に壁を越えるのは調査兵団なのだから日程くらい自分たちで決めさせてくれても良さそうなものなのに、それは許されない。直接巨人と対峙したことのない人間に、なぜそんな権利があるのだろうかとハンジは思う。

冷めた紅茶を舌に乗せると、香りよりも渋みが先に広がった。こんな鬱屈した夜は紅茶などではなく度数の強いアルコールを口にしたいところだが、生憎兵舎にそのような逸品は無い。不味い、と不満を漏らすと、目の前の医者は呆れたように溜息をついた。


「・・・それなら無理して飲まなくてもいいけど」
「ああ、ごめんごめん。そんなつもりじゃないんだよ」

じとりと睨まれて、ハンジはおどけるように肩を竦めた。普段、口にするものに関心のないの淹れた紅茶は、苛立ったハンジを宥める為だけに淹れたものだった。

は・・・ほっとしてる?今日の壁外調査が中止になって」

もし今日が予定通りになっていたら、おそらくこの医務室は血と泥のにおいで充満し、はその中を駆け回っていたことだろう。医師は退屈であるべきだと、いつかエルヴィンが言っていたが、ハンジはが退屈そうにしているところをほとんど見たことがない。

「医者としては、そう思うところも少しはあるわね」
「そっか、やっぱりって医者になるべくしてなったような人だね」
「・・・まあ、祖父も父も医者だしね」

自らも紅茶をすすりながら、は薄く微笑んだ。あまり自分のことを語らない彼女の口からほろりと零れた過去の破片に、ハンジは目を光らせる。

「そうなんだ?そんなの初めて聞いたよ」

先ほどまで不満げに目を曇らせていた筈なのに、もう好奇心のそれに変わっていた。もしこの世に巨人などというものが存在しなくて、調査兵団というものも無かったとしたら、ハンジはさぞ優秀な科学者になり得たことだろう。テーブルを乗り出してを見つめる両目は、もっと詳しく話せ、と訴えていた。は苦笑する。

「ただ、調査兵団の医師になるとは思ってなかったけれど」
「あ、それは少し聞いたことあるよ。エルヴィンに誘われたんでしょ」

ハンジは自分が好奇心旺盛な性質であることを自覚している。しかし、とエルヴィンの関係性について深入りするのはやめていた。二人には、他者が容易に入り込めない独特の空気がある。の腕を鑑みればエルヴィンが多大な信頼を寄せるのはよく分かるし、がエルヴィンに対し、気安くも弁えた態度を見せるのも立場上当然のことだろう。しかしそれだけではない何かが二人の間にはある。「男女の関係なのか」と酒の席で聞いてみたことはあるが、それは二人共否定した。きっぱりと否定されてしまえば、それ以上を勘繰るのは野暮というものだ。



雨は降り続いており、一向に止む気配がない。これほど激しい雨が続くと、河川の氾濫が心配になる。駐屯兵団の明日は忙しくなりそうだが、調査兵団である自分たちはどうだろう。壁外調査の次回の日程は決まっただろうか。また新たな作戦を立てなければならないし、やるべきことは幾らでもある筈なのに、なぜ自分はこんなところでぼんやり頬杖をついているのだろう。

「・・・エルヴィン、今夜のうちには帰ってこないかな?」

ハンジが呟くと、は窓の外に目をやった。

「そうね・・・、さすがにこの雨だと帰って来られないかも」
「今頃、憲兵団やお偉いさん方相手に、博打かましてんのかなぁ」

ざあざあと喧しい雨の音を聞いていると、二度と出られない水中に押し込められている気持ちになる。このままずっとここに閉じ込められて、壁外に出ることもなく、巨人の謎を解き明かすこともできないまま、うっかり病にでも倒れて死んでしまう ― そんな生き方を一瞬想像して、ハンジは胸が苦しくなった。どんな危険があってもいい。逃げ回るだけの味気ない生き方など、死んでも選んでやるものか。

「憲兵団といえば、今の師団長とエルヴィンって、同期入団なんだよね?」

唐突に話を変えたハンジを、は横目で見やった。
の脳裏には、猫背気味の痩せた背中が蘇る。

「・・・そうよ。訓練兵時代から、ずっと一緒だった」
「へー、何か意外だな。エルヴィンと憲兵団って水と油って感じなのに、そんな昔から知り合いなんだ。あ、じゃあも知り合い?」

何気ない質問だった。しかしはぴたりと動きを止めた。空気の色が変わったのを察し、ハンジは僅かに眉根を寄せる。

「・・・私の身分は、一応憲兵団の管轄だからね」
「ああそっか、じゃあ1ヶ月に1度位は今も顔を合わせてるんだ」
「ええ」

それきりは口を噤んでしまった。そしてハンジは、彼女の隠し持つ予防線に気付く。あまり自分のことを語らない彼女には、ハンジが思っている以上の何かがあるのかもしれない。それが大きなことであるのかそうでないのか、想像もつかないけれど。

真実はいつもハンジの目の前をちらついて、手を伸ばしたら消えていく。近付いた気がしても、それはくるりと翻って、また遠ざかる。ただ知りたいだけ、手に入れたいだけなのに。

「・・・早く、外に出たいなあ」

戦いたいわけじゃない。死にたいわけじゃない。誰かを死なせたいわけでもない。だけど外に出なければ何も手に入らない。その理屈をなぜ理解してもらえないのか。結果を出さなければならないのは分かるが、結果を出す為には過程が必要だ。過程を評価されないのが不満なのではない。過程を積み重ねることを、少しでいいから認めてもらいたい。調査兵団の兵士は皆、きっと同じ気持ちの筈だ。

でも目の前の医師はどうだろう?憲兵団に所属しながら調査兵団に配属され、ハンジが調査兵団に入るよりずっと前からここで手腕を奮っている、美しい女性は。

口数を減らした女を、ハンジはじっと見つめる。自分たちが壁の外に出て何も得られず帰ってくることを彼女は何も咎めないけれど、聡い瞳の奥ではいかほどの葛藤があるのだろう。それはきっと自分には永遠に理解し得ないだろうと、ハンジは密かに思う。自分と彼女は、同じ組織にいながらにして、見ているものはまるで違う。

「・・・今度の作戦はさ、より被害を少なくできるものの筈なんだよ」
「そう」
「だからさ、・・・だから、」

ハンジは唇を噛んだ。次に続けるべき言葉が、ハンジの辞書には見つからなかった。
その、雨音にかき消されそうな僅かな戸惑いを、は悟る。優秀な調査兵団の分隊長が、自分を目の前にして何かを迷っているのを、どうにかしてやりたくなる。

「わかってる。あなたとエルヴィンが考えたものだもの。それ以上は無いわ」

そう答えるのが生き方の一部だとでもいうように、その言葉は澱みなく紡がれた。ハンジは目を瞠る。自分の知らないことはあまりにも多いのだと知る瞬間。それは、雨が止んでも、壁の外に出ても、巨人をどれだけ解剖しても、おそらく知り得ることはない。ただ、知れないという喜びがあるのだということを、この時ハンジは初めて知った。


あぶくの行方


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