差し出された手を取るべきか取らぬべきか、俺は暫く考えた。しかし目の前の女がどこか可笑しそうに目を細めたので、俺は何かに負けた気がして、渋々その手を軽く握った。そのまま潰してしまえそうな、薄い手のひらだった。

「リヴァイ、気分はどう?」

体を起こすと、そこは見覚えの無い部屋だった。少し息を吸っただけで分かる、消毒液の匂い。ふと、自分の右腕に針が刺さっていることに気付く。自分が寝台に寝かされて、点滴を受けているということを理解するまで、暫しの時間を要した。

「麻酔で少し眠ってもらっていたの。検査の結果に異常な点は無かったけれど、少し栄養が偏ってる。いい体してるけど、もう少し食べた方がいいわよ」

傍らに立つ白衣姿の女は淡々と言った。状況はよく飲み込めていないが、どうやら俺は意識の無い間に色々と詮索されたようだった。自分の体を好きにされていたと思うと、気分が悪くなる。



半ば強制的に連れてこられた、調査兵団。俺の知る調査兵団というのは、鐘の音と共に壁外に出ては、傷だらけで帰ってくるだけの集団だった。税金泥棒だと叩かれながらも、懲りずに挑んでいく。何の為にわざわざ壁の向こうへ死にに行くのか、到底理解し難かった。しかしその集団の中に、俺はこれから足を踏み入れることになった。

ゆるゆると頭が回りだしたので、俺はまず腕に刺さっている点滴の針を抜こうと手を伸ばす。しかしふっと陰が差し、「こら」という言葉と共に手を掴まれた。

「無茶しないで・・・あなたはもう、あなたが勝手にしていい存在じゃないの」

女はゆっくりと針を引き抜くと、手馴れた所作でそこに小さなガーゼを宛てがった。俺は、自分の体がこんなにも丁重に扱われることに、正直面食らっていた。じっと女を見据えると、そう睨まないでよ、と小さな声が返ってくる。眩しい程に白衣の似合う女だと思った。

「私は調査兵団の第一医師をしている、。よろしくね、リヴァイ」

気安く名前を呼ばれ、露骨に眉間に皺を寄せる。しかし女は気にすることなく、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。

「私、あなたに会えるのを楽しみにしていたのよ」
「・・・何?」
「だってエルヴィンがあなたのことをとても楽しそうに話すから」

エルヴィン、というのは、俺を捕らえたあの金髪の男だ。いずれ殺す予定の男。泥水に叩きつけられた記憶が蘇り、腹の中で苛立ちが湧き上がる。そんな奴の話のネタに自分がされていたとなればますます不愉快だ。

「エルヴィンは、あなたが調査兵団の希望になりうるって、期待してた」

期待?と思わず聞き返すと、女はにこりと目を細めた。儚げなのにどこか影のある微笑みで、俺はそれ以上の言葉を失う。

期待という言葉は、この組織には酷く不似合いな言葉だと思った。壁の向こうで死人を出して何も得られず帰ってくる集団に、期待など。一体誰が抱いているというのか。そしてその期待を俺が背負うなど、ありえない。茶番もいいところだ。

「誰かに期待をされるって、誇らしいことよ。しかもその相手がエルヴィンなんだから」
「・・・お前の言うエルヴィンってのは、そんなにも価値のある男なのか」
「そうね」

あっさりと女は首肯した。嫌味のつもりの科白だったのに、女が表情を少しも変えないのを見て、自分の首が絞められた気がした。

「あなたもきっとすぐに分かる」

俺はまだ、エルヴィンという男のことを何も知らないのだとぼんやり思った。この女の言うことを素直に聞き入れるつもりは更々無かったが、ここまで躊躇わずにあの男のことを語るのを聞くと、まるで催眠術にでもかかったような気分になってくる。どれもこれも、薬で眠らされて妙なモノを血管に入れられていたせいだろうか。

俺は調査兵団という組織のことをまだ理解できずにいるが、いつか理解する頃が来たら、俺もこの女と同様に、あの男に敬意を払うようになるのだろうか。ありえないという思いと、僅かな恐ろしさが、指先を冷やしていく。死と隣り合わせに生きていくのは今までとも変わらない。しかし、もしも俺が死ぬようなことがあれば、その体はまたこの女の目の前に晒すことになるのかもしれない。調査兵団のことも、これから先の自分のことも、今ひとつ理解できていない気がしたが、目の前の女の存在だけは、不思議な程に心の中にすとんと落とし込まれた。





底冷えする兵舎の廊下に、自分の靴音だけが響いている。
分隊長用の個室の扉は数メートルおきに並んでいるが、ネームプレートなどは無く、どこが誰の部屋なのかは見当もつかなかった。しかし今後のことを考えれば、エルヴィンの部屋だけは見つけておく必要があった。

真夜中ということもあり、どの部屋からも物音1つしない。やはり今夜中に部屋を特定するのは不可能かと踵を返しかける。そのとき、蝶番の軋む音と同時に最奥の扉がゆっくりと開き、俺は勢いよく振り返った。

「・・・何、してるの?」

驚きを隠した低い声。手に持った燭台の火が照らし出したのは、両目を訝しげに細めた、の姿だった。昼間は束ねられていた髪が下ろされているせいで、よく見なければだとは分からなかった。

「この階には兵団幹部の部屋しか無いわよ・・・リヴァイ?」

ばつが悪いのは俺の方なのに、の方が困惑の色が強いように見えた。

「・・・お前こそ何故ここにいる・・・お前は幹部じゃねえだろう」

コツ、と彼女の靴音が鳴った。蝋燭の明かりに照らされながら、まっすぐ向かってくる。目の前に立った彼女を睨みあげれば、彼女は燭台を持っていない方の指で俺の顎先に触れた。かさついた、熱い指先だった。

知ってはいけないことなのかもしれないと直感的に思った。暗がりで見る彼女は医師などではなくただの一人の女だった。昼間交わした会話から感じられた冷静さや飄々とした雰囲気はもうここには無かった。少し疲れた表情と、呼吸の狭間の色気を見れば、彼女があの扉の奥で何をしていたかなんて簡単に分かる。そのつもりで見つめてみれば、途端に目の前の女が性欲の対象になりうるのだから、男なんて単純なものだ。

「・・・あそこは誰の部屋だ?」
「エルヴィンよ」

言い淀むことなく彼女は答えた。するりと顎から離れた指先が、今度は彼女の髪をゆるくかき上げる。

「この刹那的な組織には、真夜中にしか話せないことが沢山あるのよ」

あなたにもそのうち分かるわ。
密やかな彼女の声に促されるように、舌打ちをする。そのうち分かる、という言葉は、確か昼間にも聞かされた。俺は確かに新参者だが、こんな扱いをされるのは心底気に入らなかった。いずれ殺す予定の男と兵団の医師がどういう関係であろうと俺には関係の無いことだ。俺にとってはエルヴィンの部屋を特定できただけで充分な収穫はあった。

彼女は僅かに口元を緩ませたのち、するりと俺の横を抜けて、奥の階段を降りていった。響くショートブーツの靴音。また冷たい静寂だけが残った廊下で、俺は長く息を吐いた。




スターティング・オーヴァー


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