君ほどの腕があるのに、どうして街に残らなかったんだ? 思えばエルヴィンは昔から質問の多い男だった。 対人格闘術の訓練中に怪我をしたエルヴィンから唐突にそう尋ねられ、私は困惑した。 エルヴィンは訓練中でも滅多に負傷しないので、彼に触れたのはその時が初めてだった。しかもその時でさえ彼は擦過傷を負った程度だったので、私は安い消毒液を振りかけてガーゼを当てていただけだ。 「君も俺たちと同じ位の年頃だろう。それなら街に残っても医者として充分やっていけたと思うが?」 そしてエルヴィンは昔から、人の核心を突くのが絶妙に上手かった。 「ああ、言いたくないなら構わないよ。君のような医者が兵団組織にいてくれたら将来も安泰だろうしね」 抜群の身体センスと頭脳を持ち、今期の訓練兵の中で1位2位を争う優秀な人材だと、誰もがエルヴィンのことをそう評していた。同時に、少し変わったところのある奴だ、とも。私はそれまでエルヴィンと関わったことがなかったので、それらの話はいつも聞き流していたのだけれど、その時ようやく納得することが出来た。 「ありがとう。君のお陰ですぐに訓練に戻れるよ」 そう言って立ち上がったエルヴィンの腕を、私は咄嗟に掴んでいた。 しかしエルヴィンはそれすら想定していたかのように、一切驚くことなく、「どうかしたか」と冷静に言った。 「あなたはなぜ、調査兵団に行きたいなんて言うの?成績トップなんでしょう?」 エルヴィンが調査兵団を志願していることは、治療中の訓練兵たちからよく聞かされていた。皆、憲兵団に行く為に向上心を燃やしているというのに、エルヴィンは違うのだと。 私にしてみれば、調査兵団なんて、命と税の無駄使いだ。息巻いて門を抜けた彼らが、その人数を大きく減らして帰ってくるのを見る度に、医者としての虚しさが胸に湧く。 エルヴィンはそんな私の思考を読み取ったのか、少し困ったように眉尻を下げた。しかし私の問いかけには答えずに、優しく手を振り払い、医務室を後にした。きっとエルヴィンはその時、何を言っても私には理解できないと判断したのだろう。今になればエルヴィンのその判断は正しかったとよく分かる。しかし当時は、せっかく振り絞った勇気を無下にされた気がして、無性に腹が立ったのを覚えている。 「珍しいじゃないか、君が昔話をするなんて」 くすくすと、それこそ珍しく上機嫌な様子で笑いながら、エルヴィンはマグカップを口に運んだ。中身は内地で仕入れたコーヒー。ミルク多め、砂糖無し。こういう夜はこれを飲むのが、いつからからエルヴィンの習慣になっている。 「今日、今期の訓練兵たちの様子を見てきたから、ちょっと思い出したのよ」 照りつける太陽の下で汗を光らせ、訓練に勤しむ彼らの姿は、遠い昔のエルヴィンを思い起こさせた。初めて会話を交わした医務室の景色まで鮮明に蘇り、我ながら自分の記憶力に感嘆した。それほど、あの日の出来事は私にとって重要だったということだろう。たった数分の出来事がそれからの人生を変えたといっても過言ではないのだから。 エルヴィンの人生は、あの日の出来事があってもなくても、さして変わらなかっただろう。彼は自分の意思を貫き通して、今こうしてここにいる。明日は壁外調査だ。憧れてやまなかった現実が手の中にあるというのは、一体どんな気分だろうか。そしてその現実は、今も彼の手の中で変幻自在に動き続けている。 壁外調査の前の夜はいつも静かだ。いつもは他愛もない話に花を咲かせて夜更ししている兵士たちが、眠りについている。あるいは、眠れずに寝台で息を詰めている。そんな彼らを思うと、私の心はどうしようもなく暴れだしそうになる。さすがに、その感情をコントロールできないということはないつもりだが、それでもこうしてエルヴィンの部屋を訪ねてしまうのは、きっとそういうことなのだろう。 「・・・君には辛い思いをさせているな」 不意に投げかけられた言葉に、私は首を傾げる。エルヴィンの目は優しく細められていた。 「君を調査兵団の医者にしたのは俺だからな」 「・・・別に、あなたに誘われたことだけが理由じゃないわ」 「確かにそうだな。つい君に対しては自惚れてしまうんだ」 エルヴィンはそう言って、私からマグカップを取り上げた。そしてそのまま私の手を取り、労わるように撫で上げた。明日、彼らが壁外から帰ったら、血に塗れるのであろう私の手を。 時を刻む秒針の音だけが、静かに響いている。 エルヴィンが深い眠りに落ちていることを確認し、私はその太い腕を自分の体から退かすと、そっとベッドから降りた。窓からは月明かりが差し込み、私の影を朧げに浮かび上げている。 なるべく音を立てぬようにクロゼットを開けると、丁寧にハンガーに掛けられた兵団のジャケットがあった。男のくせにエルヴィンは几帳面で、このジャケットがソファやベッドに投げられているところなんて一度も見たことがない。それがエルヴィンの覚悟であり、人生そのものなのだろうと思う。 こうしてクロゼットに掛かっているジャケットを見るのも、もしかしたら今夜で最後になるかもしれない。壁外調査の前夜はついそんな思考が働いてしまう。考えなければいいことなのに、毎月毎月、飽きもせず。それが誰の為にも何の為にもならないと知りながら、私は潰れそうな思いでジャケットに手を伸ばした。安易な気持ちで羽織ることは許されないそれを、私はそっとハンガーから外して、抱き締めた。微かに香る、エルヴィンのコロン。死なないで。生きてさえ帰ってきてくれれば、必ず私が助けてあげる。本人には決して言えないその科白を、抱き締めたジャケットに染み付かせる思いで、私は暫くの間そうしていた。 |