差し込む陽光が、艶のある髪を柔く照らしている。
本や書類が乱雑に積み上げられた机に突っ伏し、白衣姿のまま眠る女。
狭く簡素だが、日当たりだけは抜群のこの部屋を、人々は女神のサンクチュアリと呼ぶ。




STARGAZER
prologue




ノックをせずにその部屋の扉を開けたのには、理由があった。
ギギ、と音を立てる蝶番を恨めしく思いながらも、ハンジはそっと部屋を覗き込んだ。
そこには、白い光にぼんやりと照らされながら眠る1人の女がいる。すぐ隣には寝台があるというのに、彼女は大抵このように毎晩机で眠っている。寝ぼけてその手が動いてしまったら、積み上げた本は一気に崩れてしまうだろうに。

ハンジは自身の靴音に気をつけながら、そっと彼女に歩み寄った。
こちらに向けられている白い顔は、眠っている筈なのに少しも気の抜けたところがない。長い睫毛の先に、結ばれた唇に、細かな産毛の光る頬に、芸術のような計算された美しさがあった。柔らかそうな髪に光が照り返しているのも、白衣の袖から覗く白い手首も。

一頻りその美しさを堪能して、ハンジは満足げに息を吐いた。名残惜しさを覚えつつ、白衣の肩にそっと手を乗せる。手のひらに体温の実感が湧くのと、彼女の瞼が持ち上げられるのは同時だった。

「やあ、おはよう。ご機嫌いかが?」

先程までその寝顔を見つめていたことなどおくびにも出さず、ハンジはいつもの調子で声を掛けた。

「いつまで経っても食堂に顔を見せないから、迎えにきちゃったよ」

そう言って、トレイに載せていたマグカップを差し出した。まだ充分に温かいそれからは、コーヒーの香ばしい湯気が立っている。彼女は起き抜けの緩慢な動作で、素直にカップを受け取った。

、今日の約束、覚えてるよね?」
「・・・約束?」

彼女はコーヒーを啜ろうとしていたが、ハンジのその言葉に眉を寄せた。寝起きで掠れた声は、ハンジの機嫌を更に良くする。やっぱり忘れてるか、と残念そうに呟くも、その顔は少しも残念そうではない。

「巨人の解剖に付き合ってくれるって約束だよ!今日の予定にしてただろ?」

爛々と目を光らせて言うようなことではないだろう、と彼女は思う。ハンジは“巨人の解剖”という言葉を口にした途端、明らかに気分が高揚していた。眼鏡の奥の両目が、好奇と期待に満ちている。

彼女は改めてコーヒーを啜ると、「そうだったわね」とぽつりと返した。決して乗り気になれる話ではないが、その申し出をつい了承してしまったのは自分である。ハンジは嬉しそうに笑みを深くして、躊躇なく彼女の髪に手を伸ばすと、寝乱れた髪をぞんざいに両耳にかけてやった。早く支度をしろ、と口で言えばいいのに、それを先に行動で示してしまうあたりが、ハンジの憎めないところだ。

「後で行くから、先に行っておいて、ハンジ」
「いや、一緒に行こう。それを飲み終わるまでここで待ってるよ」
「・・・見張られていなくてもちゃんと行くわよ」

彼女の言葉に、ハンジは一瞬目を丸くして、すぐに首を横に振った。

「そんなつもりじゃないよ」

じゃあ先に行っておけ、と彼女の目線が訴えていたが、それには気付かない振りをした。
ハンジは、彼女のことを尊敬している。彼女の持つ知識や技術にいつも目を見張り、恵まれた容姿とそれを無防備に晒し出す彼女の気質に、同性ながら何度も息を呑んできた。上司でも部下でもないからこそ、ハンジは素直に彼女を愛することができるのだ。

「兵団の女神様と、女神様の聖域で、こうして二人っきりになれることなんて滅多に無いからね。少しでも長くここにいたいんだ」
「もう・・・その呼び方は勘弁してって言ってるのに」

諦念の滲んだ溜息も意に介さず、ハンジはやはり上機嫌に目を細めた。



命を奪う巨人が悪魔なら、兵士の命を救う彼女は、まさに女神だった。しかし当の本人は、その呼び名を酷く嫌っている。彼女は自分のこの部屋が、サンクチュアリなどと呼ばれているのも知っている。それらを厭えば厭うほど、その呼び名はどんどんついて回るようになった。何が女神か、何が聖域か。救いきれなかった数多の命は、今も自分を見つめているのに ― 音も無く影も無く、見守るように、恨むように。