エリミネーターの引鉄を、初めて本当の人間に向けて引いた夜。 佐々山はまるでそうするのが最初から決まっていたみたいに、とても優しく私を抱いた。 窓のない部屋は明かりを消すと途端に闇になり、自分の五感が必要以上に過敏になるのを感じた。それは未知の空間に放り出されるような不安を伴う。そして佐々山はそれすらも理解しているというように、柔らかな力で私の指を絡め取った。普段の、軽薄で粗雑な彼はそこにはいなかった。 両手を絡め合っているから、佐々山はかさついた唇だけで私の肌を愛撫した。女好きを自認するだけあって、女をよろこばせることには手馴れているようだ。五感が順序よく支配されていく。暗闇の色も、コロンの香りも、唇の味も理解した。互いのささやかな呼吸もよく聞こえる。そうして最後に、彼の手と口によって、触覚をも彼に委ねることになる。 まだ充分に冷静さを保った頭の中で、この行為には一体どんな意味があるのだろうと考える。私たちは同僚であって恋人ではない。まあ、恋人同士でなくてもセックスをすることくらい世の中の男女には珍しくないのかもしれないけれど、個人的にはなかなかの抵抗を覚えることではある。それなのに、今夜は誘われるがまま付いてきてしまった。 「手、離してもいいか?」 優しく問う声は少し掠れていた。頷く代わりに、自分から手を離す。佐々山は私の前髪を撫でて、額に一瞬のキスを落とした。いよいよ両手が自由になった男に、これから自分がどんな風にされていくのか、予感は少しずつ現実味を帯びて体が緊張する。それでも佐々山の手指は決して私をいたぶるようなことはせず、どこに触れるときも優しかった。女好きというのは一種の特技かもしれない。 私たちはそれきり何の会話もせず、お互いの静かな快感をもってして、一通りの行為を終えた。マニュアルがあるとすればこんな感じだろうと思えるほど、礼儀正しいセックスだった。呼吸を整える為に目を瞑っていると、脳の片隅からグラデーションを描くように睡魔がやってくる。ああ、寝たくない。寝ている場合じゃない。今夜のうちに佐々山に、聞いておきたいことがある― 夢を見た。 私は素裸で廃棄区画を駆けていた。吐く息は白かったけれど不思議と寒さは感じなかった。ただ全力で走る。何かを追っているのか、それとも逃げているのかは分からなかった。ただひたすらに体を動かしながら、思う。目的が分からないまま走り続けるというのは何て苦しいのだろう。誰か、私に、目的を、理由を、教えて。尊いはずの人の命を引鉄一つで奪えてしまう、そんな権利がどうして私などに与えられているのか、誰か、私に、理由を教えて。 「・・・」 名前を呼ばれ、はっと目を開ける。 佐々山はベッドに浅く腰掛けて、振り返るようにして私を見ていた。 「よく寝てたな」 佐々山はすっと私の目元に触れた。目尻を柔く拭われて、私は自分が涙を流していたことに気付く。サイドテーブルに置かれた明かりのせいか、佐々山の表情はいつになく穏やかに見えた。 「・・・もう朝?」 「いや、まだ3時」 肩まで掛けられた掛布を落とさないよう胸元を押さえながら体を起こすと、グラスをすっと差し出された。さすがの用意周到さに感心しつつ、素直に冷たい水を喉に流し込む。 「もうちょい寝とくか?・・・疲れただろ、色々あって」 色々。そう、本当に色々あった。 ほんの数時間前まで私たちは抱き合っていて、その前は、そうだ、私は生まれて初めて人を殺したんだ。聞き慣れた音声と共に、ドミネーターは簡単にエリミネーターへと変形した。執行対象の男と一番近い場所にいたのは私だった。撃ち放つ瞬間、躊躇いはなかった。何度も訓練してきたことだったから、むしろ指先は思考よりも先に引鉄を引いていた。我に返ったのは、目の前が血の海に変わった後。あの場に佐々山はいなかった。だから私が撃つことになった ― そこまで思い返してようやく気が付く。私と佐々山は普段同じチームとして行動していて、執行官になって日の浅い私に、些細なフォローをしてくれていたのはいつも佐々山だった。パラライザーモードで事足りる犯罪係数の者ならば私が撃ち、そうでない者ならば、いつも真っ先に佐々山がドミネーターを構えていた。きっとあれは、私に対するささやかな思いやりだったのだ。 「・・・佐々山もこんな気分になるの」 「は?何が」 「・・・今までずっと代わりに撃ってくれてたんでしょう」 彼の目はきれいに丸く見開かれた。 しかしすぐに言葉の意図に気付き、溜息のような笑いをこぼした。 「まあ、好きな女に味わわせたい気分じゃ無ェからな」 急に酸素を失ったみたいに、胸の中が苦しくなる。涙が出そうになるのを俯いてごまかす。空になったグラスの底に、シーツの色が透けて見えた。こんなふうに全て簡単にわかってしまえたらいいのにと思う。この社会は、私には理解し得ないことだらけ。 きっと佐々山には私のつまらない葛藤など全て見透かされているのだろう。ゆっくりと手が伸びてきて、頭を撫でられる。 「・・・やめて、甘やかすの」 「馬鹿、慰めるくらいさせろ」 きっぱりとそう言われて、とうとうグラスの中に涙が落ちた。また佐々山が小さく笑う気配がする。私たちには、人を裁く権利はあっても、己の生き方を決める権利はない。なんて救いようのない事実。何をしていても、全てを誰かに委ねきっている。今だってそうだ。私たちは私たちの意思以外のものによってここにいる。ここで、らしくもないやり取りを交わしてしまっている。まるでこうなることが、最初から決まっていたみたいに。 佐々山は私の手からグラスを奪ってサイドテーブルに置くと、ゆっくりと顔を近付けてきた。音を立てずに重ねられる唇。滑り込んでくる舌の温度に、情けないほど安心した。同属の男の味。少しずつまた五感が蕩け始める。肩を押される力に逆らわず、頭を枕に預けた。 「・・・俺ってやっぱ潜在犯なんだな」 「・・・どういう意味?」 「お前を見てたら、やばい位そそられる」 思わず笑うと、愛おしそうにこちらを見下ろす男も口元に笑みを浮かべていた。 「お互いもう潜在犯なんだ。どうせなら、それらしくやろうぜ」 そのままもう一度唇が降りてくる。 何を考えても、何に抗っても、結局のところ何も変わらない。あるのは矛盾に満ちたこの体だけ。きっと佐々山は私よりずっと前にそのことを分かっていて、だから私を今夜このベッドに招いたのだろう。もっとも彼らしいやり方で。 手に触れるものだけを信じればいい。手始めに、目の前にある滑らかな鎖骨に歯を立ててみる。こっちにおいでと手招くひとが、引鉄の感触を消し去るように、優しく指を絡めてくれた。 すべては彼方 |