ペニンシュラのロビーは、静かなざわめきに満ちている。その中では静かにクレームブリュレを口に運んでいた。確か、初めて出会った時も、こいつはここで同じものを食べていた。

グラスの氷が音を立てる。それでようやくおれに気付いたとでもいうように、ゆっくりとが顔を上げた。揺れた大ぶりのピアスに、シャンデリアの細かな光が反射する。

「・・・誰も、いないところがよくて」

ぽつりと呟いた声は、流れるクラシックにかき消えてしまいそうな程か細かった。

「だからここにしたの。・・・忙しいのに突然呼び出して、悪かったわね」

はそう言って、カードキーとクラッチバッグを持って静かに立ち上がった。俺が何も言えずに座ったまま見上げると、冷たい目線が寄越される。

「早くして。あまり時間が無いの」




羽は置きざりに





仕事柄、沢山の女たちを目に焼き付けてきた。彼女たちは一様に美しく、その煌びやかさにこちらが圧倒されることもある。彼女たちが振りまく笑顔は、レンズ越しに、カメラマンであるおれだけではなく、世間の視線をも釘付けにする。

今目の前にいる女は、女優でもなければモデルでもない。しかし、ハイヒールを履いたままベッドに横たわるその姿は、さながら雑誌の表紙のようだった。投げ出された手足には何の力も込められておらず、その無防備な質感が、シャッターの音と共に美しく切り取られていく。タイトな白いワンショルダードレスは、薄らと青白くさえ見えるの肌色によく映えていた。

「・・・適当に動いていいかしら」

おれが頷くと、は気だるげにゆっくりと上半身を起こした。衣擦れの音と共に曲げられた両足を、這いずるようにドレスの裾が移動する。ベッドに零れ落ちる白い色気の隙間に、何か色味のあるものを加えたいのに、このデラックスルームには彼女に相応しいものが何もない。



一体どれだけの時間、レンズを覗いていただろう。
ベッドの上で、特別何かをするわけでもなく、座ったり寝そべったりを繰り返すに、おれはシャッターを切り続けていた。喉がからからに渇いているのに気付いてカメラを置いたとき、目の前の彼女が熱っぽく溜息をついた。彼女も彼女で、それなりに緊張していたのだろう。

「・・・ちょっと休憩だ。お前も疲れただろい」

グラスにミネラルウォーターを注いでやると、は素直にそれに口を付けた。ロビーで待ち合わせたときは、どこか頼りなげで苛立たしそうにしていたのが、今はまるで夢の中にでもいるような顔をしている。その様子を横目で見ながら、おれも一息で水を飲み干す。

俺と同い年のくせに、の肌にはシミ1つ見当たらなかった。剥き出しの肩口も、触ればつるりと指が滑りそうだ。数年前は大企業の社長秘書を勤めていると聞いたが、今も続けているのかどうかは知らない。ただ、こうしてデラックスルームのベッドに腰掛け、水を飲んでいる横顔は、とても社長秘書なんかでは勿体無い。

「マルコ、どうして私が突然呼び出したか・・・聞かないの」

壁にかかった絵画を見つめながら、ぽつりとが呟いた。
おれはペットボトルをテーブルに置くと、ソファに腰をかける。クッションのよく利いたソファは、柔らかく体の様に形を変えた。

「たまたまスケジュールが空いてたから良かったけどよい・・・おれもあんまり暇じゃねェんだぞい」
「悪いと思ってるわ。今や売れっ子カメラマンだものね」

肩を竦めて笑う横顔に、つられて口元が緩む。




初めてと出会ったのは、10年程前。友人の結婚式の日だった。早めに到着し、ロビーでコーヒーでも飲もうかと足を進めたとき、そこにがいた。淡いパープルのシフォンドレスを着て、1人で黙々とクレームブリュレを食べていた。

「あんたも、結婚式かい?」

その装いで、おそらく同じ式に招かれているのだろうと思ったおれは、向かいの席に腰を下ろした。他の席はいくらでも空いていた。しかし、を見て興味を持たずにはいられなかったのだ。ナンパだと思われるのは些か気恥ずかしくもあったが、それでも目の前の宝のような美女を放っておく方が俺にとっては無茶な話だった。

「新婦の友人かい?それとも姉妹か」
「・・・まあ、そんなところです」

明らかにおれを警戒しながらも、はクレームブリュレを口に運び続けていた。艶のある唇に銀色のスプーンが抜き差しされる様は、なんともいえず官能的で、おれはすぐに恋に落ちていた。馬鹿馬鹿しいほどに安っぽい感情だった。

式の最中も、おれはずっと目でを追っていた。招待客の中に知人は1人もいなかったのか、は終始誰とも言葉を交わしていなかった。だからこそ、式の後、おれ達は2人で二次会をすっぽかしたのだ。

ペニンシュラの一室を借りる程の金は無かったため、仕方なくしけこんだラブホテルでも、はあまり口を開かなかった。質問に答えたのは、名前、年齢、職業ぐらいのもので、他のことは全てだんまりだったが、おれの求める行為には、一切の抵抗をしなかった。

帰り際に連絡先を交換し、それから数ヶ月に1度のペースで会っていたが、おれ達のすることといえば、ただ闇雲に体を重ねることだけだった。今思えば、おれ達は食事にすら行ったことがなかった。そうしていつしか、はおれの電話に応えることは無くなった。



あの結婚式で見た新郎が、の恋人―男にとっては浮気相手だったのかもしれないが―だと知ったのは、随分後になってからだった。





出会った時は売れないアシスタントだった俺も、今では複数のファッション誌を掛け持ちするカメラマンになった。しかしは、どうなったのだろう。あの頃の美しさは変わらないが、何を考えているか分からないところまでも変わっていない。


「・・・で、どうするよい?まだ撮るかい?」

カメラの中には、既に200枚以上の姿が収められている。

「何でおれを呼び出したのかは、聞いても言わねェだろうから聞かねェが・・・この写真の使い道ぐらいは聞いとかねェと、おれもどう処理していいか分からねェよい」

はゆっくりとこちらを見ると、「そうよね」と小さく笑った。その笑みは、美しいのにどこか悲しげで、おれは一瞬息を呑む。

「・・・マルコ、迷惑ついでにもう一つ撮ってほしいものがあるの」

背中のジッパーが下ろされ、ワンショルダーの右肩から腕が抜かれ、するりと足元に落とされた白いドレス。柔らかな間接照明に照らされた裸体は、かつておれがかき抱いた記憶の中の体より、幾らか歳を取っていた。しかしそれでも、おれは咄嗟にカメラを構えた。

再びベッドに上がったを、様々なアングルからファインダーに収める。シャッターの落ちる音が重なるごとに、その白い体は、先端から赤く染まっていくように見えた。その色彩のコントラストが、カメラマンとしての自分と男としての自分の境界線をぼやかしていく。

最終的に、カメラをベッドの隅に放りやって、おれはに跨っていた。カメラ越しでは知り得ない、まろやかな肌の質感を手のひらに抱き、唇を寄せる。か細く上がる女の声が、ぞくぞくと背筋を震わせる。シャツを脱ぎ捨て、華奢な両足を割り開いてみても、は素直に従った。

「・・・本当は、ずっとあなたに会いたかったの。・・・本当よ」

シーツを握る小さな手が、まるで迷子になった子供のように頼りなくて、おれはその手を絡め取った。




おれがシャワーを浴びて部屋に戻ると、もうそこにの姿は無かった。まるで全てが夢だったかのようなあっけなさ。しかし乱れたシーツに触れると確かに湿り気が残っていて、夢などではなく、単純にまたおれが置いていかれただけなのだと知る。カメラに残った大量の写真の行き場も知らされぬまま。

ベッドに仰向けに寝そべると、ふと、サイドテーブルのメモに書き置きがあるのを見つけて、おれは跳ね起きた。飛びつくようにメモを手に取り、暫くの間凝視する。
しかしどれだけ睨んでも、おれにはそのメッセージの意味が、分かるようで分からなかった。それはたった数文字の、シンプルな、別れの言葉。



― あなたのものになりたかった





数ヵ月後、風の噂でが結婚したと聞いた。秘書を勤めていた企業の、年老いた会長の後妻になったのだという。その結婚が訳ありなのだということは誰にでも分かることだ。しかしその実情を、が語ることはきっと永遠にないだろう。