いつだって手の届くところにいたけれど、この指で触れてみたことは一度も無かった。何もせず、ただ立っているだけでそれだけの魅力を放つ背中が、砂漠の中のオアシスのように輝いて見えていたけれど、オアシスはいつも蜃気楼の向こう側だった。


それが今この手にある。



シルクの溜息




初めてのセックスは少しだけ痛くて少しだけの達成感があった。
いつだかナースの姉さんが言っていた、初めての時は死ぬほど痛いのよ、なんて台詞はただの脅しだったのだろう。そして、はまるとやめられなくなるわよ、という台詞は、まだ私には想像がつかない。ただ、何となく、離しがたいものを知ってしまったのだという気はする。

「・・・眠れねェのかよい」

眠っていた筈の両目が不意に開かれ、思わずぎくりとする。せめてもっと緩やかにその瞼が持ち上げられたなら、何かしらの準備はできたのに、彼は器用にも言葉と瞼を同時に操ってみせた。

「起きてた・・・んですか」
「それはお前だろい」

くつ、と喉を鳴らす笑い声が、シーツの間に零れる。彼は、仏頂面でいることが多いけれど、決して笑顔を見せない人ではない。でもこんな表情を見るのは初めてだった。何というのか、真夜中の明かりによく映える。そういえば、今の笑顔に限らず、私は今夜たくさんの彼を知った。

こうして同じ高さの枕に頭を預けて見つめ合っていると、ここにいる男は私が今まで憧れていた彼ではないような気がする。キスもセックスも、その主導権は当然彼にあって、優しく触れてくる彼はある意味では想像通りの彼だった。だけどこうして、同じ目線で見つめ合っていると、体が1つに繋がりあったその瞬間よりも、ずっと感動的な気持ちになる。

「・・・裸のまま眠るのが、初めてで」

自分の言葉は、意図せず舌っ足らずに甘えたように響いた。この声よりもずっと頭の中は冷静で思考回路もまともなのに、これでは彼に甘えていると思われてしまいそうで悔しい。しかし彼はそうは言わずに、ふっと笑っただけだった。

「着せてやろうか?」

彼が親指を立てて、くい、とベッドの下を示す。そこには私のキャミソールや下着が落ちている筈だ。私は小さく首を横に振り、彼の顔に手を伸ばした。本当は、さっきからずっとこうして彼の肌に触れてみたかったのだけれど、なぜだか勇気が出なくてできなかった。

「触れていたい、です」

自分のとは明らかに異なる、それは男の人の肌だった。彼は暫く黙って私の指にされるがままになっていたけれど、私が唇に触れようとすると、その手をぱっと掴み取って勢いよく私の体に覆いかぶさってきた。シーツの間で停滞していた体温に、外の空気が混じり込む。

「誘ってんのかよい、いっちょまえに」

見下ろされる角度に、鼓動が速まる。足の間があの鈍い痛みを思い出す。快楽と呼んでいいのか分からないあの不思議な感覚が、指先から体の中心めがけて走り出す。

「・・・お前、今年で幾つになる」
「・・・じゅうしち、です」
「若けェのに、何でこんなおっさんなんか相手にしたんだよい」

皮肉っぽく言いながらも、視線は柔らかく向けられていた。ああ、これだ。私が欲しかったのは、私のことしか見ないこの両目。海でもなくオヤジでもなく仲間でもなく、ただ私という女だけを見ているこの瞬間に、一体どれほど焦がれただろう。

どうして彼に惹かれてしまったのか、自分でもよく分からない。確かに彼は優しくて頼りがいがあって女からもよくもてる。だけどそれだけじゃなく、もっと根本的なところで私は彼に抱かれてみたかった。セックスという行為の、意図ではなく意味を教えてくれるのは、私にとって彼だけだろうと思っていた。それを恋と呼ぶのかどうかは、私にはよく分からない。

「・・・つまらなかった、ですか」
「何?」
「私が、若くて何も知らないから、退屈でしたか」

彼は珍しく驚いたような顔をした。ああ、こんな風に、私の言葉の1つ1つで彼が表情を変えるだなんて、誰が想像できただろう。

「そういう女を自分の手で汚してやるのが快感なんだよ、男ってのは」

ああ、くだらない生き物だ。だけどそんなくだらなくて凶暴な欲望に、弱いふりをして汚されてみたいだなんて思ってしまう。

下りてくる唇に応えるように、彼の背中に手を回した。砂漠の中のオアシスは、一度触れたら離れられない底なし沼なのだと知る。それでもいい、どこまでも沈んでいってしまおう。永遠に手に入らない孤独と比べれば、溺れ死ぬことさえも怖くはないのだ。