するりと衣擦れのような音を立てて、その髪は緩やかにほどかれる。いつもは後頭部で1つに束ねられているために、下ろされた髪が彼女の乳房のあたりまで落ちるのを見て、マルコは密かな驚きを覚えた。いつの間にそんなに伸びたんだ、と口にしかけて、留まる。噛み締めた煙草の先から灰が崩れ落ちて、冷静なようでいて実は存外に動揺しているのかもしれない、と思う。


「………マルコ」


か細い声で名前を呼ばれたのを契機に、彼は口から煙草を引き抜くと、それをテーブルに押し付けた。木製のテーブルには無数の焦げ跡。それらを一瞬見つめてから、再び彼女の方に顔を向ける。もう何年も前から見続けてきた、彼女のエメラルドグリーンの瞳に、見たことのない色が揺れている。彼はゆっくりと立ち上がった。


立ち込めるのは熱の気配。風通しの悪い部屋の温度は、這い上がるように高まり続ける。彼女の首筋には幾本かの髪がまとわりついていて、彼はそれを剥がしてやろうと無骨な指先を向けた。簡単なことだ、と心の中で独りごちる。この髪を梳かしてやることも、この華奢な首に両手を回し締め付けてしまうことも、何もかも。目の前に立つうら若い少女の、小さくも無限の世界を変えてしまうことも、きっと自分なら容易いのだろうと、彼は思う。











ベッドとテーブルとチェスト。それだけが整然と配置された彼の部屋には、絶えずコポコポという、酸素の音が響いている。それはチェストの傍、直接床に置かれた水槽のためであり、その中では数匹の熱帯魚が暮らしていた。毒々しい程に鮮やかな色をしたそれらは、彼が自分で手に入れたわけでも、ましてや、彼が飼いたいと思って飼っているわけでもない。このシンプルな部屋にその色彩を持ち込んだのは、他の誰でもない、だった。


「魚を飼いたい」


もう随分前のことだが、は唐突にそんなことを口にして、水槽と熱帯魚を手に入れた。用意したのは他の船員で、彼女が「飼いたい」と言った翌日には、もうその一式が用意されていた。この船の者たちは一人残さず、彼女を甘やかしたがる傾向にある。


しかし一旦望みが叶ったはいいものの、彼女には個人部屋が与えられていなかったため、その置き場所がなかった。そこで候補に挙がったのが、彼女の面倒見役でもあるマルコの自室だったのだ。何でおれなんだよい、というマルコの言葉は完全に黙殺され、気付けばチェストの傍には、そのチェストと同じ位の幅はあろうかというほどの水槽が置かれていた。彼は普段、部屋に余計な物を置きたがらず、その水槽は明らかに彼にとって『余計な物』。しかしそれを手に入れたの表情が、見たことも無いほど朗らかだった為に、彼は承知せざるを得なかった。結局のところ、彼も他の船員同様、彼女に甘いのだ。


それ以来、彼女はほぼ毎日、その魚たちに餌をやるべくマルコの部屋にやって来る。何事にも無頓着な彼女がここまで何かに執着する様を見るのは、幼い頃から面倒を見てきた彼にとっても初めてだった。粉状の餌を水中に撒き、それを求めて泳ぐ魚たちを、真剣な眼差しで見つめている。そんな彼女の横顔には何か思わせるものがあり、彼は気にしていない振りをしながらも、つい横目でその表情を窺ってしまうときがあった。











孤独な生い立ちのせいか、は歳の割に無口な少女だった。物心つかぬ頃から白ひげ海賊団の一員として生きてきて、日々の宴、戦闘、笑い、涙、ときには弔いさえ、他の者たちと同様に見つめてきたはずなのに、若い彼女は他の誰よりも、その感情を言葉にしなかった。


時折そんな彼女の性質をもどかしがって、酒に酔った者などが執拗に会話を試みることもあったのだが、それも彼女が15歳になる頃には、めっきり少なくなっていた。その頃には誰もが彼女を「無口な少女」だと疑いなく認識していたし、そしてまた、その認識を覆そうとする気をうっかり削がせる程に、彼女は美しく成長していたのだ。


長い船上生活で肌は日焼けし、髪の色素は抜け、陸上に生きる年頃の娘とは確かに異なる風貌をしていた。しかしその聡明そうな顔立ちや、しなやかな体つきは、他人が荒々しく触れることを許さぬような、そんな美しさに覆われていた。


大人になったんだな。感嘆のニュアンスを込めて、誰もが彼女をそう評した。幼い頃から見ている者などは特にそういう思いが強いようで、「は誰に惚れてるんだろう」とか、「どこの隊の誰がに惚れてる」とか、「もいつか結婚するんだろうか」とか、そういった話題は酒の席の定番になりつつあった。


に直接聞いたって、絶対何も話してくれねェしなァ」


程よく酒の回った男が至極残念そうに言うのを聞いて、マルコは鼻で笑った。食事時のダイニング。マルコとその男は、食事と共に酒を嗜むのが日課だった。


「なあマルコ、の奴、お前に一番懐いてるだろ?」
「知らねェよい。付き合いが長いからそう見えるだけだろい」
「付き合いが長いなら尚更だ、そういう話、しねェのか?何か言ってこねェのか?」


マルコは手を顎にやり、考える振りをする。しかし答えは決まりきっているので、すぐにその手は次の酒瓶へと伸ばされた。ポン、と甲高くコルクの抜ける音。期待と羨望を乗せた視線を送ってくる船員に対し、マルコは一瞥をやると、その視線をすぐにまた酒へと戻す。


「そんな話、一言も聞いたこと無ェよい」


無口ながマルコといる時に提供する話題といえば、誰々が怪我をしたらしいだの、親父の病状が思わしくないらしいだの、そういったものばかりで、自分が誰かのことをどう思っている、という方向には、進みかけたことすらない。


(…あとは熱帯魚の話ぐらいか)


改めて自分ととの話題の乏しさを思い、マルコは苦笑する。しかし決してその沈黙が苦痛に感じられないのは、共に過ごしてきた年月の長さがなせる業だろう。


「…あ、マルコ、誤解すんなよ?」


ふと目の前の船員が、酔いの中で真面目な顔をする。


「おれがのそういうことに関心があるのは、ただの親心だぞ」
「そんなこたァ分かってるよい」


に恋心を持つ者は少なくないが、それは決まって新しく船に加わった者だけだった。彼らはの外貌と、そのミステリアスな雰囲気に惹かれてしまうらしい。しかし長年その成長を見守ってきた古株の船員たちは、彼女が実はミステリアスでも何でもない、ただ無口なだけの存外に普通な少女だということを知っている。それは勿論良い意味であり、孤独な生い立ちを背負い、船上という苛酷な環境で生きてきた少女が、『普通』に育ったことを喜ばずにはいられない、という意味を含んでいる。


「ま、親心ってんならせいぜい遠くで見守っててやれよい」


マルコはそう言って立ち上がると、ダイニングを後にした。











マルコが自室の扉を開けると、室内にいたはくるりと首だけで振り返った。いつものように、チェストの傍にある水槽の前に屈み込んでいる。


「来てたのかよい」
「勝手に入ってごめん」
「いや」


の手には餌の入った瓶が握られている。魚たちが元気よく泳ぎまわっているところを見ても、おそらく今しがた餌を撒いたばかりなのだろう。マルコは一瞬でそれを察し、どっかりと椅子に腰掛けた。テーブルに置きっぱなしにしてあった煙草に手を伸ばす。


コポコポという、酸素の音。ほとんど会話の無い二人の間がさほど静かになりすぎないのは、この音のおかげであるということに、彼は今更ながら思い至った。例え静かになりすぎたとしても困ることは無いのだが、全くの無音よりは生活的でいい。


彼は彼女の後ろにいるので、お互いにその表情は分からない。しかし彼女がどんな顔をしてその水槽を見ているか、彼には何となく想像がついた。後頭部で1つに束ねられた髪。その後れ毛が散るうなじには、小さくも存在感のある、白ひげ海賊団のタトゥーが入れられている。幼い頃は勿論無かったそれ。無垢な首筋にそれが彫られたのは一体いつのことだっただろうか。痛くなかっただろうか。彼は唐突にそんなことを思って、聞いてみようと口から煙草を引き抜いた。


「ねぇマルコ」


しかし先に口を開いたのはだった。マルコは寸でのところで言葉を飲み込み、引き抜いた煙草を再び銜える。は水槽を見つめたままだ。


「魚たち、大きくなったよね」


この水槽がここにやって来たのは2年ほど前のこと。それ以来彼は魚たちを毎日目にしているので、はっきりした変化はわからないが、言われてみれば確かに2年前よりは一回りほど太ったような気がした。彼女が魚を可愛がるあまり餌をやりすぎている、という節もあるが、貧弱な魚よりは太った魚の方が見ていて安心だ。


「大人になったのかな」


彼女はそう言うと彼の方を振り返り、その口元を僅かに緩ませた。彼女は無口だが、無表情というわけではなかった。怒ったり泣いたりすることは滅多に無いものの、笑顔はためらいなく浮かべる方だ。だから彼も、軽く口角を上げて笑ってやる。


「そうかもな」


唇に煙草を挟んだまま器用に答えてやれば、彼女はまたその笑みを深くした。その笑顔を見て、確かに美人の部類かもしれない、と彼は内心で思う。陸地に上がれば彼女はそう魅力的な方ではないかもしれぬが、海上に生きる者としては、彼女は充分すぎるほど整った美しさを持っていた。若い新入りが思わず惹かれてしまうのにも頷ける。


彼は改めてそのように思い、そしてその考えを振り払うように息を長く吐き出した。仲間である筈の彼女に対して、必要以上に『女』という性別を意識する自分を、彼自身どこか認められずにいるのだ。


「マルコ」


名を呼ばれ、顔を上げる。水槽を前に屈んでいた筈の彼女は、いつの間にかその場に立ち上がっていた。どれ程長く同じ体勢でいたのか、生成りのワンピースにはくしゃりと皺が寄ってしまっている。


彼女はゆっくりと水槽から離れ、ベッドの傍に移動した。きちんとベッドメイクされた、その掛布の表面を緩慢に撫ぜる。何をしているのかと彼は問いそうになるも、その刹那彼女の瞳が彼を捉えたので、やはり彼はその問いかけを飲み下した。窓から差し込む光が、彼女の髪を眩く照らしていた。


「私も大人になりたい」


唐突な台詞だった。彼女はまだ二十歳にも満たない若い少女で、けれどもその外貌は決して子供じみていなかったし、今の彼女を子ども扱いする者なども、この船にはいなかった筈だ。だからこそ彼は眉を顰める。この船上で彼女は、もう充分に大人として見なされている。


「…。歳ってのは、嫌でも取っちまうもんなんだよい。だから、」
「セックスしたことないの」


「焦るな」と、続けるつもりだった。しかし彼の言葉を遮るように、彼女はその台詞を躊躇いなく放った。


「だからしてみたい」


彼女の眼差しは真剣だった。いよいよ彼の眉間の皺は深くなる。突然この部屋に現れた、場違いな単語に、彼自身、年甲斐もなく狼狽しているのを感じた。しかしその動揺が表出しないのが彼という男なのであり、白ひげ海賊団の一番隊隊長を任されている所以でもある。


彼はなるべく感情を込めぬ視線を彼女に返した。しかし見据えた先の丸いエメラルドグリーンは、それでもたじろぐことなく、視線を受けて返してくる。言葉を返してこない彼を怪訝に思ったのか、彼女はゆっくりと首を傾げた。その小さな顔には、単純すぎるほどの純粋さが浮かんでいる。


「……そういう事をしたからって、大人になれるってわけじゃ無ェよい」


諌めるような口調で彼は言ったが、彼女の眼差しの真剣さは微塵も揺らがなかった。それどころかあまりに淡々とした表情でいるものだから、彼は自分の言ったことが、途端に的外れな陳腐なもののようにさえ思えた。


「…それにお前、おれにそんなこと言ってどうするつもりだよい」


取り繕うように矢継ぎ早に台詞を重ねてしまったことを、彼はひっそりと悔いた。この状況でこんな台詞を言ってしまう自分が、やはりどうしようもなく、彼女を『女』として見ている証のような気がして、居心地が悪かった。


相変わらず彼女はまっすぐに彼を見つめている。水槽の中であぶくの弾ける音だけが、かろうじてこの空気に平静さを保たせていた。


「…セックスは1人じゃ出来ないから」


彼の銜えた煙草が揺れたのは、その口元が僅かに震えたからだった。


大人になりたいと思うことは、大人になる為の第一歩だと彼は思っている。だから彼女の「大人になりたい」という気持ち自体を否定したり、揶揄したりするつもりは一切無かった。ただ、海賊として生きてきた彼女が、大人の意味をどこで履き違えてしまったのか。そのことは彼に罪悪感を抱かせた。そしてそれと同じくらいの、優越感も。


ベッドの傍に立ち尽くす彼女は、そこでようやく頬を染めた。どうやら彼女は無鉄砲なわけでも無知なわけでもなく、本当の気持ちを口にしただけらしかった。その意外な反応を見て、彼は思わず目を見開いてしまう。


(…何だよい、その顔)


それまではこちらが疑念を持つほど冷静だった彼女が、突如感情を露わにした。それを見た彼も感情を表出してしまう。今目の前で、ぎこちなく頬を染めているのは、仲間なのか、それともただの1人の女なのか、彼にはそれを見定める必要があった。


「後悔するよい」


彼の言葉に、彼女はふるふると首を横に振った。そして聡明な彼女は、それを彼の答えだということを察した。その小さな唇が、僅かに引き結ばれる。


「…後悔なんてしない」


彼女はそう言って、髪を束ねていた白いリボンに手を伸ばし、軽やかにそれを解き取った。衣擦れのような音を立ててほどかれる髪の長さに、彼はひっそりと息を呑む。如何ともし難い、体温の高まりを感じずにはいられない。


「………マルコ」


彼女の本当の気持ちなど、彼には分からなかった。彼女の思惑の深層に手を伸ばして全てを理解することも、出来なくはなかった。しかし彼はその段階をすっ飛ばした。『仲間』の証であるタトゥーが、長い髪に隠されたのは、彼にとっても、彼女にとっても、間違いなく好都合なことだった。











決して手触りが良いとはいえない、褪せた色の髪に指を通す。長年の陽光と潮風に苛まれた、それは海賊の髪だった。すっとその髪をかき分ければ、見慣れたタトゥーが顔を覗かせる。それを見てマルコはふと手の動きを止めた。このタトゥーがいつここに刻まれたのか、さっきに聞いてみようと思い立ったことを思い出したのだ。


彼の右腕に頭を預け、まるで縋りつくような体勢で、は眠っている。寝息の1つすら聞こえないことに不安を覚えそうになるが、その体は呼吸に合わせ僅かに上下している。つい先程まで彼が触れていた彼女の肌は、しっとりと汗ばんで、何か酷く艶かしい輝きを放っていた。


間違い。勢い。成り行き。
使い慣れたそれらの言葉を順繰りに頭に浮かべては、彼はそれら1つ1つを打ち消していった。彼女と自分との関係は、そんな簡単な単語で済ませてはならない気がしたからだ。大人になりたいといって肌を晒した彼女にとって、それらの言葉は容赦の無い揶揄でしかないし、また、失うものの無い彼にとってもそれは同じだった。


その時、ふるりと彼女の睫毛が震えた。そのまま重たげに瞼が持ち上げられ、見慣れたエメラルドグリーンが光を宿す。気付いた彼は、彼女の顔にかかっていた髪をさり気なく除けてやった。


「…マルコ」


寝起きの声は掠れていた。しかしその表情は、寝惚けてなどいなかった。妙にはっきりと目を開き、すぐ傍にある彼の顔を見上げている。彼は彼女の頭を乗せた方の腕を軽く曲げて、その頭を抱き込んだ。


「気分はどうだよい」
「…ん」


その返答に彼は苦笑する。再び髪に手を通せば、ふ、と彼女が息を漏らす気配がした。そういえば行為の間中、彼女はよくこんな息の吐き出し方をした。今のそれよりかは幾分か熱っぽかったが、それは確かに彼女の未熟さの象徴のようで、彼は彼女が従順に己の指先に答えるのを、この上ない満足感を覚えながら見つめていたのだ。


「大人になりたいなんて嘘」


もごもごと歯切れ悪く彼女は言った。彼は少々心の内が身構えるのを感じたが、それはおくびにも出さず、どういう意味だよい、と続きを促してやる。


促された彼女は小さく身じろぎをして、彼の裸の肌に腕を回して抱きついた。そのささやかな力を感じ、彼は再び彼女の体の感触を思い出すこととなる。存外に重症だ、と思う。


「マルコとセックスしたかっただけ」


そう言った彼女はこくり、と僅かに頷き、そしてもう一度言葉を言うべく息を吸った。


「マルコの恋人になりたかった」
「……ずいぶん乱暴なやり方だよい」
「傍にいるだけじゃ足りなくなったから」


彼女がこれほど順調に言葉を紡ぐのを、彼はほとんど初めて聞いた。そういったことも相まって、彼の胸の中は驚きという単純な感情に埋め尽くされた。胴体に巻きついた彼女の腕を、今すぐにでも掴みたくなってしまう。


「ここに魚を連れてきたのも全部、いつかマルコとこうしたかったから」


あの魚は私の嘘を食べ続けたから太ったの。
彼女は小声でそう付け足して、うふふと嬉しそうに微笑んだ。彼はといえば、呆気に取られて何も返せずにいる。そのことに気付いた彼女は、不思議そうに身を起こした。重力に従って髪が緩やかに垂れ下がる。その髪先を直肌に感じて、彼はぞわりと自身の神経がざわめくのを感じた。


「…いつの間にお前、」


彼はそう言ったきり、口を噤んだ。いつの間に。その後に続く単語があまりに多すぎて、言えなかったのだ。いつの間に、髪が伸びたんだ。綺麗になったんだ。しなやかな体になったんだ。いつの間に、そんな想いをひた隠しに出来るほどの、女になったんだ。


彼は彼女の顔に手を伸ばして、そのまま自身も体を起こすと、勢いのままに彼女の体を組み敷いた。短く彼女が声を漏らすも、その唇をゆっくりと塞いでやる。うっとりと、そのエメラルドグリーンの瞳を潤ませる様を見て、彼はやはりもう一度その唇に自身のを重ねた。もうこうなってしまったら行けるところまで行ってしまおうと、彼は密かに決意をする。


絶え間ない酸素の音の中で、水槽の中の熱帯魚だけが、二人の秘密を知っていた。