箱 庭
阿伏兎は私の肩を抱いた。そこで初めて、私は自分の体が震えていることに気が付いた。目の前にはさっきまで生きていた人の死体と、それを前にして平然と立つ神威の姿。神威は手の甲に付いた血を軽く舐めとると、くるりと私たちの方を向いた。 背筋が寒くなる。人が殺されるところを初めて見てしまった。殺されたのは神威の部下だった人で、彼は好きな女を殺さなければいけない任務にあたって、それを遂行できなかったのだという。「結局俺が尻拭いすることになるのに、何で自分でやっとかないかなぁ」神威がにこにこしながらそう言ったと思ったら、次の瞬間には、その人は死んでいた。人が死ぬという場面も勿論恐ろしいのだけれど、私がそれ以上に恐ろしかったのは、神威が笑顔を一切崩さずに人を殺したことだ。 「馬鹿だよね。どうせなら自分で殺っちゃえばよかったのにさ」 「俺には分かる気もするけどな、あいつの気持ちも」 「あはは、そんなこと言ってるといつか阿伏兎のことも殺しちゃうよ」 そう言った神威はやはり笑っていた。私はただの人間なので、夜兎というのはこういう生き物なのだと、そう言われれば何も言えなくなる。しかし震えは止まらない。どうして私に向ける優しい笑顔を、人を殺す時にまで浮かべていられるのだろう。私は両手を胸の前で握り締めた格好のまま、おそるおそる口を開いた。 「神威…どうして笑ってるの?今、人を殺したんだよ?」 神威は私の方に視線を移して、少しシニカルに口元を歪ませた。 「笑顔は俺の殺しの作法だからね。せめて笑顔で見送ってやるべきだろ」 「…人を殺すことに、作法も何も無いでしょ」 そう言った私の声は、自分でも驚く程に冷たく張り詰めていた。阿伏兎が私の肩に置いた手に力を込める。それはきっと私への警告だ。しかし私は止められなかった。 「作法とか、笑顔で見送るとか、そんなの何の意味も無いでしょ?人を殺すんだよ。命を奪うんだよ。作法も何もないよ。人を殺すことに変わりは無いのに」 神威は丸っこい目で、じっと私を見ている。しかしすぐにいつもの笑顔になって、そして嘲るように言った。 「人を殺したことも無い奴は黙っててくれないかな」 「なっ…、」 「死にかけたことすら無いのに、よくそんなご立派なことが言えるね」 何なら殺されてみる? 神威がそう言うと同時に阿伏兎は私を抱えて飛び上がり、神威から距離を置いた。 「隊長、それはさすがにやめときましょうや」 阿伏兎がそう言ったとき、私はもう神威の方を見ていられなかった。恋人である筈の私を殺そうとするときでさえ、あの笑顔を浮かべているのだとしたら、もう耐えられないと思ったから。 「…ふーん。ま、なんか殺しても殺さなくても変わらないか。 何にも知らないお嬢さんは、死者の代弁気取りで満足してるみたいだしね」 軽い調子で神威は言った。阿伏兎が安堵の溜息を吐く。その腕に抱かれて私は、感情の無い、冷たい涙を流していた。狂ってるよ、と言うと、阿伏兎が、そうかもな、と小さく答えた。それでもお前は隊長が好きなんだろ。阿伏兎は哀れむように、そう言った。 |