もう触れられない



白いTシャツにデニムのショートパンツというラフな格好で、は眠っている。きっと眠るつもりはなかったのだろう、その手元には分厚い本が置かれていて、ベッドで横になって本を捲っているうちにうっかり眠りに落ちてしまったのだということが分かる。エースはそのベッドに浅く腰掛けて、すやすやと子供のような寝息を立てているを、息を詰めて見つめていた。

生成りのシーツに散らばる褐色の髪。縮こまるように緩く曲げられた華奢な手足。その色白の頬に影を落とす、長い睫毛。そのどれもが興味深くて、エースは視線を逸らせずにいた。そしてその行為自体がひどく後ろめたいものであるということが、またどうしようもなく、エースの筋の一つすら動かすのを躊躇わせた。

ここはマルコの部屋だ。部屋の主は現在楽しい宴の真っ最中で、勿論エースも先ほどまではその輪の中にいた。しかし酔いが回っているらしいマルコに「を連れて来い」と命じられ、こうして部屋に呼びに来る羽目になった。マルコの話ではは部屋で調べ物をしているとのことだったが、扉を開けてみれば、はベッドの上で無防備に寝顔を晒しているところ。それはもう、こちらの口元を緩ませるようなあどけない寝顔で。連れて来いだなんて残酷だ、とエースは心の中で呟く。

最初はエースもやれやれと肩を竦め、起こすために腕を伸ばそうとしたのだが、いざベッドに近付いてみるとその腕を引っ込めてしまった。



胸の中で名前を呼んでみる。もちろんそれが音声になることはなかったので、当のはぴくりともしなかったが、エースは切ない程の気持ちを込めて再度名前を呼んだ。

起こさぬように気を払いながら、静かにベッドに腰掛けてみる。マルコに「呼んで来い」と言われた以上、どんなにいい夢を見ていたとしても、叩き起こして連れて行かなければならない。こうして必要以上に長い時間をかけては、ならない。時間がかかればかかる程、エースの胸に巣食う、至極個人的な背徳感は膨らんでゆくばかりなのだから。

エースがこの船に乗り込んで、一番先に親しくなったのがだった。エースとほとんど歳の変わらぬこの少女はエースよりずっと前からこの船の船員で、荒れた雰囲気を漂わせるエースにも、屈託なく話しかけた。そんなにエースも徐々に心を開くようになり、そしていつからか、ごく自然に、エースはに友人以上の感情を持つようになった。

しかしは、マルコのたった一人の恋人だった。エースがそれを知ったのは、もう後戻りできないほど、に焦がれ始めた後だった。だからエースはこの気持ちを誰にも打ち明けることが出来ずに、今日までを過ごしてきた。何度、この髪に、体に、触れたいと思ったか分からない。ほんの少し手を伸ばせば、いつだって触れられるところにいたのに、どうしても触れられなかった。触れてしまえばなにかが壊れてしまうんじゃないかと、恐ろしくて。

「………ん、」

その時、眠っていたがゆっくりと身じろぎをして瞼を震わせた。ゆるゆると開かれていく水色の瞳が、少し遠くを見つめた後、エースの気配に気付いてそちらに光を宿す。

「…エース」
「ああ、」
「どうしたの…?」

寝起きの掠れた声にエースはどうしようもなく背筋が粟立つのを感じたが、がそのことに気付く筈もなく、ゆっくりと体を起こした。の体には少し大きいそのTシャツは、襟ぐりがずれて、その鎖骨を絶妙に外気に晒させている。

「…いや、マルコに呼んで来いって言われたから。マルコの奴、甲板で酔ってやがる」

何だか言い訳みたいだ、とエースは思った。ここでを見つめていた暫しの時間をごまかす為のような。は長い髪を手櫛で整えると、ぱちぱちと瞬きをして、エースに対し柔らかに微笑んでみせた。

「そう。ありがとう」

その目はエースを見ているが、その瞳の奥がもう別の誰かを見ていることには、エースも分かっていた。だから短く、いや、と答えると、が立ち上がるより先に立ち上がる。ベッドが軋んで、小さく音を立てた。

「おれは先に行ってるから、お前も早く来いよ。…あと、顔にシーツの跡ついてんぞ」

そう言われ、は恥ずかしそうに頬に手をあててはにかんだ。そしてもう一度、ありがとう、と言う。エースはそれには答えず、部屋を出た。

どうしてこんなに切ないのだろう、とエースは思う。好きな女が幸せならそれでいい筈なのに、どうして自分はこんなにも、この腕にその女を抱きたいと思ってしまうのだろう、と。いずれ甲板にやって来てマルコに寄り添うであろうのことを思うと、どうしてもやりきれなくて、エースは甲板には戻らず、静かに自室の扉を開けた。