あの日、俺の幼稚な思いつきを、彼女は何も疑わずに受け入れた。 こくりと頷いた彼女の顎先に、赤いにきびが小さく出来かけていた。にきびの出来る箇所を恋愛になぞらえる言葉があった気がしたのだが、顎に出来たそれを何と呼ぶのだか、あのとき俺は思い出せなかった。 dear my innocent girl 研磨は、大切なことほど、大したことなさそうに言う癖がある。 「気をつけたほうがいいよ」 部活の帰り道、コンビニで買ったアイスを齧りながら、研磨は唐突に言った。 余計なことは口にしない性格だ。こうして何かを言いかけているということは、それなりに重要なことなのだろう。食べきったアイスの棒を噛み締めながら、さて何か忠告されるような心当たりがあっただろうかと記憶を辿る。 研磨は手癖のように制服のポケットからスマホを取り出し、つい、と指で画面に触れた。歩きながら触るなつってんだろ、と言ってやれば、研磨はちらりと隣を歩く俺を見上げた。 「・・・案外、人気があるみたいだよ」 「は?何がだよ」 子供の頃から一緒にいるが、口数の少ない俺たちの会話といえばほとんどがバレーの話題ばかり。まして研磨から何か話を持ちかけてくることなんて滅多に無い。だからこそ俺はちゃんと聞いてやるつもりだったのだが、次に研磨が口にした言葉に、俺は咥えたアイスの棒を噛み折りそうになった。 「クロが思ってるよりも案外人気あるんだよ、・・・さん」 歯切れ悪くそう言ったプリン頭のてっぺんを見下ろし、ふと思う。やはりこいつの観察眼と勘の鋭さは侮れない。俺は暫く言葉を探したが、「そうなんだな」と驚いたふうに返すのがやっとだった。 ◆
改めて思い返してみても、何て幼い好奇心だったのだろうかと思う。 とは、中学の3年間ずっとクラスが一緒だった。だからといって他のクラスメイトと比べて特別に仲が良いというわけではなかった。しかしぼんやりと窓の外を眺める彼女の横顔は、整っていて可愛いな、と密かに思っていた。 あの日もは窓際に立っていた。中学3年の最後の試合を控え、練習にも熱が入っていた夏の日。俺は教室に忘れ物をして、練習が始まる前に取りに戻った。誰もいない筈の教室の扉を開けると、は驚いたように振り返った。 「あれ、何してんだよ?」 「・・・日直だったから。もう帰るよ」 は開けていた窓を静かに閉めた。俺も自分のロッカーから体操服を引っ張り出して小脇に抱える。そのまま教室を出ようとすると、「黒尾くん」と呼び止められた。俺は周りから揃ってクロと呼ばれていたが、3年間も同じクラスだというのに、はそうは呼ばなかった。 はあのとき、少し言葉を選ぶようにしながら俺を見つめた。その頼りない表情に、胸が鳴らなかったといえば嘘になる。しかしそれでも平静を装うくらいの余裕はあった。なんだよ、と促してやれば、はゆっくりと瞬きをして言った。 「今度の大会・・・頑張ってね。応援してるから」 特別な意味は無かったのかもしれない。でも俺はその時、なぜか、去年卒業したバレー部の主将のことを思い出した。卒業以降ほとんど会うことはなかったのだが、先日偶然見かけたとき、誰だかすぐには分からないほど大人っぽくなっていて驚いた。そしてその先輩の隣には、髪を明るく染めた、女の子が居た。付き合っているのだとすぐに分かった。バレーのことしか頭にないような人だったのに、いつの間にか恋愛というものを始めていたのだ。 それは小さな衝撃だった。俺だって女の子に興味が無いわけではなかったが、いざそれを自分の生活に取り込むなんて想像さえしたことがなかった。だが、よく知る先輩が女の子を連れているのを見て、何だか妙に得心したのだ。誰かと付き合うというのは、別に崇高なことではなく、出来るか出来ないかの問題でもなく、するかしないかのことだけなんだと。だから思い付いてしまった。俺の隣に、バレー部の仲間だけでなく、が並んでいるというのも、悪くないんじゃないかと。 体操着を抱え直して、俺はの前に立った。整った顔立ちだとは思っていたが、近付いてみると、その潤んだ目の美しさにはっとした。 「・・・付き合ってみない?俺たち」 は、何も言わずにただ頷いた。 ◆ あれからもう3年が経つ。 志望校はたまたま同じだった。俺はバレーをする為に、は自分の姉が通っていたからという理由で音駒を選んだ。高校では一度も同じクラスにならなかったが、俺たちは大きな喧嘩をすることもなく今日まで過ごしてきた。 隠しているわけでは決してないのだが、意外と俺たちのことは人に知られていなかった。校内で会っても目線を僅かに合わす程度で、俺もも、互いへの関心を必要以上にさらけ出さない。だから、研磨に野暮な忠告などをされてしまうのだ。 「こんな時間に悪いな。おばさん達、大丈夫だったか?」 人気(ひとけ)のない夜の公園に、は自転車に乗って現れた。 見慣れたモスグリーンのパーカーに、デニムのショートパンツという出で立ち。ベンチに座る俺の前に立つと、コーラのペットボトルを差し出した。気の利いた差し入れだ。 「うん。コンビニ行くって言ってきたから」 それより何かあったの?と、は心配そうな顔を見せながら俺の隣に腰を下ろした。ふわりと漂うシャンプーの香りに、急に神経が敏感になる。俺はペットボトルの赤いキャップを外して、甘い炭酸を喉に流し込んだ。 なかなか話し始めない俺の隣で、は黙ってブランコの方を眺めていた。気付かれないようにその横顔を窺う。中学のときは、この小さな横顔を、可愛いな、と思っていた。でも最近は急に女らしくなって、可愛いというより、綺麗という言葉の方が似合うようになった。学校では化粧もしていないし、派手でもない。だから彼女の密かな美しさを知っているのは、自分だけだと思っていた。 しかし研磨によると、そうではないらしいじゃないか。だから俺は、夜も遅いというのに、こうしてを公園に呼びつけた。きっとは、また俺の急な思いつきだと呆れていることだろう。 あの日、付き合ってみないか、と言ったのは、本当にただの思いつきだった。しかしあれから共に過ごしてきた3年間は、間違いなく俺の気持ちを変えた。好きだと言ったことは、一度もない。勿論、好きじゃないわけじゃない。言ってやるのが気恥ずかしいというのはある。しかし、それが理由じゃない。ただもうそんな言葉はくだらなく思えてしまうのだ。今のこの気持ちに、そんな言葉は相応しくない、気がする。 夜風が何度か吹き付けた頃、俺はようやく口を開いた。 「・・・研磨がさ、は意外と人気があるから気をつけろって言うんだよ」 勘のいいは、それを聞いた途端、しまった、という顔をした。これはどうやら具体的に何かあったらしい。ごまかすように髪を耳にかけ直すのを見て、参ったな、と内心溜息をつく。俺は何て鈍感な男なんだろう。 「・・・やっぱ、誰かに言い寄られてんだ?告白でもされた?」 少しの逡巡のあと、は無言で頷いた。あの日のように。 俺の口からはとうとう溜息が漏れた。自分の彼女が、自分の知らないところで知らない男に告白をされていた。よくあることなのかもしれないが、ショックだった。ふられるかもしれないということよりも、自分の彼女が、客観的にそれほどの価値のある女なのだと、知らなかった自分に何よりショックを受けた。 「好きですって、言われたの」 は申し訳なさそうに眉尻を下げ、少しだけ笑った。 言ってなくてごめんね。そう付け足して、じっくりと俺を見上げてくる。機嫌を窺おうとしているのが伝わって、ばつが悪くなった。別に俺は怒っているわけじゃない。じゃあ何なのかといわれれば、答えなど決まりきっている。 その時、のスマホが着信を告げるメロディを鳴らして、は慌てたように画面をタップした。すぐ帰るよ、ごめんごめん、と、少しだけ慌てた様子で話すのを見ていたら、こんな時間に呼び出した自分が馬鹿らしくなる。電話を切るのを待って立ち上がると、は不思議そうに顔を上げた。 「悪いな、家まで送るよ」 「え・・・、クロの話はもう済んだの?」 こうして公園に呼びつけてから、沈黙の時間のほうが長かったかもしれない。しかしはそれ以上何も問うてくることはなく、静かに立ち上がった。ふと思い付いて、の腕を引き寄せると、華奢な体は簡単に俺の胸に収まった。柔らかくて小さい、守るべき生き物。 「・・・これで済んだよ」 そう言って腕を解くと、がくいと俺のシャツを引いた。その目が何かを乞うように揺れているのを見て、俺は静かに腰を屈める。近づいた顔の距離を埋めるように短く口付けてやれば、は満足そうに笑みを浮かべた。 ふと、公園の街灯に照らされたの顎先に、見慣れないものがあるのに気付く。その俺の目線の動きで、どうやらも気が付いたらしかった。 「ああ・・・少し前にできちゃって」 そう言って軽く指先で触れたのは、小さな赤いにきびだった。あまり肌荒れのしない滑らかな肌だからにきびが出来るのは珍しい。しかし、ふと、3年前の夏のことを思い出した。確か、俺たちが付き合うことになったあの日も、は同じ場所を赤く膨らませていて、俺はぼんやりした頭で、にきびの出来る箇所と恋愛を関連させる言葉があったなと考えていたのだ。 「・・・なあ、顎にできるにきびのこと、何て呼ぶんだっけ」 「え?“想われにきび”のこと?」 はあっさりと答え、そして悪戯っ子のように口角を上げた。 「クロさえ想ってくれてれば、私は充分だよ」 どうして恥ずかしげもなくそんなことが言えるのか、不思議でならない。こういうところが俺のいいようにされる理由だぞ、と思う。何でも俺の思い通り。中3の夏の教室から、代わり映えしない俺たち。 そのまま、俺も好きだとか何だとか言ってやれば格好もつくのかもしれないが、生憎それはできなくて、俺は再びに唇を寄せた。ふわりと伏せられた長い睫毛の気配がこそばゆい。の手の中で再びスマホが震えていたが、それには気付かない振りをした。 |