遊 泳 区 域
部屋を自分の趣味で飾り立てる人は寂しがり屋な性格なのだと、いつか聞いたことがある。
彼はだらしなくシャツの前ボタンを開けて、ソファに深く腰掛けていた。シャワーを浴びて戻ってきた私を目線だけで捉えると、条件反射のように小さく口角を上げる。
「俺、殺されちゃったんだよね」
つまらなそうに頭の後ろで両手を組んでいるその姿は、拗ねた子供のように見えた。
「・・・何の話?」
先にシャワーを浴びていた彼の髪を撫でてやると、指の間が薄く濡れた。つまらない戯言の相手をするつもりはなかったのだが、当の本人はあっけらかんと言い放った。
殺したのはちゃんだよ?
そこまで言われて、昨夜見た夢の話をしているのだと察しがついた。同じベッドで眠っている女に夢の中で殺されたというなら、起きて早々にシャワーを浴びにいったのにも納得がいく。
「謝ればいいの?」
そう言った私の声は存外に優しげに響いた。
「慰めてよ」
攻撃的な薄茶色の目。猟犬というより野犬だ。噛み付かれたら無事では逃げられないだろう。美しい彼の手が何かを確かめるように私の腰を撫でた。バスローブの感触越しに、手のひらの熱さが伝わってくる。体温が高いんだね。血の気が多いからかな。とりとめもない、かつての会話が蘇った。初めて彼の体温を生肌で知ったときは感動したっけ。
片膝をソファに乗せて彼の両肩に手を置けば、彼は片手を私の後頭部に回した。そのまま彼の体に乗っかる形になる。「大胆だね」と彼が少々驚いたような声を出した。
「午後から仕事だよ、監視官?」
「慰めてって言ったのはあなたでしょう」
彼は満足げに目を細め、手馴れた所作でバスローブの紐を解いた。
ここに、世界の全てがある。重なりかけた体温がゆっくりと空気を濡らし始める、ほんの僅かな瞬間が、私と彼の世界の全てなのだろうと思う。こんな小さな世界でしか生きられないなんて、まるで水槽の熱帯魚だ。あてもなく彷徨って、また同じところを泳ぎ続ける孤独な生き物。でもここから飛び出してしまったら、待ち受けているのは圧倒的な絶望だけだから、甘んじてこの世界で私たちは求め合う。どうしてこんなふうにしか、私たちは一緒にいられないのだろう。
「・・・考え事してる?」
目を開けると、不満げに眉根を寄せた彼が、じっと私を見ていた。
「咥えてくれるのは嬉しいんだけど、心ここにあらずって感じじゃ、犯してるのと変わんないよ」
熱くなった彼のものから口を離し、舌の上にある僅かな苦味と唾液を共に飲み込む。心ここにあらず、なのは、彼も一緒じゃないか。体だけはしっかりと私の愛撫に反応しておきながら、その脳の中では私の様子を窺う余裕さえあるなんて。だけどここで悪態をついても可愛くないので、私は再び行為を再開させた。ぴくり、と彼の腹筋が動く。細身なのにしっかりと筋肉のついた体は、それだけで私を舞い上がらせる。彼が今までどんな思いで鍛えてきたのか知らないわけではないけれど、今目の前にある筋肉の1つ1つは、私をどうにかしようとする彼の脳の指令で動いていて、それはいつも私を心地よくさせると知っているから。
「もういいよ」
前髪を柔く撫で上げられたと思ったら、性急な動作で腕を引かれ、あっという間に体勢が逆転した。ほんの数秒で劣勢になった体が一気に熱を上げる。余韻を探すように唇を舐めると、私を見下ろす彼がふわりと笑った。
固い指先が、何かの道順を辿るように、私の顎先から、首筋、胸の谷間、臍、そして隠していた下着の奥へと進んでいく。思わず零れた吐息は、彼に許可を与えるには充分だった。ただ彼を愛撫していたというだけで出来上がってしまう女の体が恥ずかしくて、両目を瞑る。その仕草が、彼を更に昂らせるということを、知らぬわけでもないくせに。計算し尽くされた本能の行為が、ふたりきりの孤独な世界を寒色に染めていく。求めれば求める程、いっそう酷くなる悲しみ。
「・・・あ、あっ」
息の詰まるような甘い苦しさを堪えるように、彼の二の腕に爪を立てた。リズミカルに体の中を弄ばれて、全ての主導権を奪われたことを知る。
彼の唇から恍惚の息が吐き出された。年齢の割にいつも余裕を漂わせる彼からこんな表情を引き出せることに、朦朧とした優越感を覚える。せり上がる声をコントロールできない位に追い立てられて、意味ある言葉を発することもできぬまま、彼の首筋に縋り付いた。
― どうかこのまま、消えてしまえないだろうか。
腹の上に出された白濁色の液体を、彼は自らきっちりと拭い取って、ソファの傍のゴミ箱に捨てた。皮膚には違和感が残っていたけれど気怠い体を起こす気にはなれなかった。軽く放心している私の隣で、妙にすっきりした様子の彼は、手癖のように私の髪を撫でた。
気持ちよかったね。身も蓋もない彼の物言いに、思わず微笑んでしまう。彼と抱き合っていると私の思考回路はいつもパンク寸前だ。肉体的な快楽と、愛しさと、幸福さと、そしてそれらを全て呑み込むような絶望感が、一緒くたになった押し寄せる。でもきっとそれは彼も同じだ。もしかしたら、彼の方が、絶望に打ちひしがれているかもしれないとさえ思う。
「・・・何で私に殺される夢なんて見たのかな」
彼は僅かに目を見開いた。例え誰のどんな命令だったとしても、私が彼にトリガーを引くことなんて絶対にありえない。しかし彼はそうは思っていないらしかった。
「そりゃまァ、覚悟はしてますから」
「私があなたを撃つと思うの?」
「だってそういう契約だろ」
契約。その言葉が腑に落ちてしまうのが悲しかった。こんなに愛しくて、手放したくなくて、彼との幸福な未来を願わない日なんて無いのに、どうして誰も私たちを赦してはくれないのだろう。当たり前のように誰もが手にしている幸せが、私たちの世界には存在しない。刹那的な快楽だけが、今を繋ぎ留める唯一の方法だなんて。
ちゃん、と呼ばれて顔を上げる。再度シャワーを浴びる為に立ち上がった彼が、柔らかい表情で私を見下ろしていた。
「俺、死にたくはないけどさ、もしドミネーターで撃たれるならちゃんがいいな」
馬鹿なこと言わないで、と、すぐに言い返そうとした。しかし、彼の目があまりに真っ直ぐだったから、言葉を呑み込んでしまった。どうしてそんな、縋るような目をするの。
「・・・もういいから、早くシャワー行きなよ」
言った途端に鼻の奥がつんと痛んで、慌てて顔を背けた。言葉の端が震えていたのにはきっと彼も気付いただろう。しかし彼は優しく私の頭に手を置いただけで、そのままシャワールームに向かっていった。私を泣かせる優しさのすぐ傍で、底無しの孤独を飼い慣らしている、誰よりも愛しい男。好きにならなければよかったと、幾度思ったことだろう。でももう戻れない。私たちの世界には、もう入口も出口もないのだから。
|
|