うわぬりを繰り返す


呼吸の1つすらろくに出来ないほど激しく求め合ったあと、は辛いであろう体を無理やり起こして、風呂場へと向かった。間もなくして、シャワーの水音が聞こえてくる。

俺は布団の中でその音を聞きながら、枕元に置いてあった腕時計で現在の時刻を確認した。午前3時。日付が変わってすぐの頃に2人でこの布団に倒れ込んだのだ、この何ともいえない倦怠感も、至極当然のことだろう。

情交の余韻を無下にするのは俺の得意技だった。行為が終われば、それまで自分が抱いていた女のことなどどうでもよくなってしまうから。しかし、の場合は違う。いくら抱いてもこの女を手放したくないと思うし、この女の全てを手に入れたいと思う。だからたとえ2人の体力が限界を迎えても、ずっと腕の中に収めておきたいのだ。それなのに、は簡単に、俺の腕をすり抜けてしまう。それがの本心ではなく、様々な制約によるものなのだということを、分かっていないわけではないのだが、つまらない猜疑心がどうしても消えてくれないのだ。

そのとき、部屋の襖が開いて、ひたひたと裸足の足音が近付いてきた。どうやらが風呂から上がってきたらしい。清浄な石鹸の香りが俺の鼻腔に届く。

「・・・シャワー、浴びませんか」

少し語尾を下げる調子で掛けられたその台詞に、俺は片腕で目元を覆ったまま、「後で」と短く答えた。するともまた、「そうですか」と短く言った。僅かに腕をずらして様子を窺うと、は鏡台の前に腰を下ろして、コットンに化粧水か何かを含ませているところだった。

風呂上がりで化粧を施していないは、普段よりずっと幼く見える。鏡に向かう横顔はまるで生娘のようで、とても亭主があるような女には見えない。それどころか、裕福な呉服問屋の箱入り娘そのものだ。しかしその手が、自身の顔のパーツに順に触れていく度、箱入り娘は世間を知るのである。

「・・・なあ、

何となく見ていられなくなって、俺は再び腕で目元を覆うと、ゆっくりとの名前を呼んだ。その声は意図せず低く響いた。

「帰るのか?」
「…ええ」

は躊躇いがちにそう答えた。接待やら何やらで明け方にしか帰宅しないらしい亭主より、ほんの少し早く、この不良妻は帰宅する必要がある。俺にとっては不良妻だが、亭主にとっては、ひたむきに家庭を守る良妻なのだ。

俺はそんなことを思いながら、ふ、と口元で笑った。そしてほとんど無意識に言葉を発していた。

「俺達、このままどうなるんだろうな」

それは言ってはならないことだった。視界を閉ざしているためにの動きは分からない。しかし、困ったような顔をしているであろうことは容易に想像がついた。

「離婚はしねえのか」

次いで出た言葉に、今度こそ自分自身が驚いた。離婚。その単語が俺たちの間に登場したのは、おそらくこれが初めてだ。しかし俺はずっと前からこのことを聞きたかった気がする。離婚しないのか。亭主を捨てないか。俺のものに、なってくれないか。さすがにそこまでは言葉に出なかったが、俺は内心でひどく緊張していた。返答が、怖かった。

の化粧道具が、コトンと音を立てて、鏡台に置かれた。見ていないので分からないがおそらくそれは間違っていない。そしてゆっくりと衣擦れの音をさせながら、俺の方に近付いてくる。観念して俺は腕を退かした。そこには、まだほとんど化粧のされていない、の幼い素顔があった。

「土方さん」
「・・・何だ」
「土方さん・・・」

の声は切ないくらいに掠れていた。そしてゆっくりと顔同士が近付いたと思ったら、まるで何かを拭い去るように、は俺の唇を一瞬だけ舐めた。その舌はひどく熱かった。

「聞かなかったことに、させて下さい・・・」

そう言われても怒りの感情が全く浮かばなかったのは、目の前にあるの両の瞳が、暗がりでもはっきりと分かるほどに、それはもうこちらが泣きたくなるほどに、きらきらと、揺れていたからだ。