恋だの愛だの、そういうものを知るより前に出会っていればよかった。そうすれば俺たちはもっと自由でいられた筈だ。しかし、もしも俺たちが自由だったら、こんな風に強烈に愛し合うことは出来なかったかもしれない。そう思うのも事実だが。



夜を駆けて




は地元では有名な呉服問屋の一人娘で、十代の頃はろくに家から出させてもらえなかったらしい。茶道に華道に日舞に料理に。それらを毎日叩き込まれたは、もともと恵まれた容姿を持っていたこともあり、年頃には見合い話が絶えなかったそうだ。

「それで、結婚したんです。年嵩の、幕府のお役人と」

そう言って悪戯っぽく笑ったに対し、俺は眉を顰めざるをえなかった。そんな重要なことはもっと前に言え、と怒鳴りたかったが、もう怒鳴る気力も体力も残っていなかった。俺達は一つの布団に二人で横になっていたのだ。互いの肌はしっとりと汗ばみ、部屋の中には独特の熱っぽいにおいが漂っている。

「土方さん、それでもまた、会ってくれますか?」

互いに一夜限りの関係のつもりで入った宿だった。しかし事を終えてみれば、一夜限りにするにはあまりに惜しいと思ってしまった。どうやらそれはも同じだったらしい。下世話な言い方をすれば、セックスの相性が良かった。それ以上でも以下でもない。しかも互いにそう感じているのだからそれは間違いないだろう。男として、これを手放すなんてのは、とても出来やしない。

そうは思うものの、俺は即答できない。俺は隊服を着ていたし、俺の身分のことはも充分理解している筈。が既婚者であることは抱く前から何となく察しがついたが、これは相手が悪すぎるだろう。亭主が幕府の役人?俺も幕府の人間だっつーの。

「お前、既婚者だろう。また会うってことはどういうことか分かってんのか」

あえて既婚者という部分を強く発音してみせたが、は一切表情を変えない。
強かな女だ。とても呉服問屋の箱入り娘には見えない。

「分かってます。土方さんは、他の男の手垢の付いた女は嫌ですか」
「・・・嫌なら最初から抱いちゃいねェよ」

そう言って再びの体に手を伸ばしたとき、俺は覚悟を決めていた。



最初は体の相性がいいというだけだったが、何度か会って話をするにつれて、気付けば俺はにかなり入れ込んでいた。歳も同じで、田舎から江戸に出てきたという点も共通している。もしが結婚していなければ、俺は本気でをものにしようとしたかもしれない。それ位はいい女だった。


初めて夜を共にした日から、3ヶ月が経っていた。

「土方さん、アンタいつの間に女作ったんですかィ」

背後から掛けられた声に、俺は思わず身を硬直させた。時刻は午前0時過ぎ。なるべく物音を立てぬよう気を配りながら玄関で靴を履いていたところに、もっと物音を立てぬようにして、奴は俺の後ろに立ったらしい。ゆっくり振り返ってみると、何とも楽しそうに口角を吊り上げている総悟がそこにいた。一番厄介な奴に見つかっちまった。

「こんな時間にデートですかィ。お盛んなこって」
「うるせえな。お前も早く寝ろ」
「色街の女ですかィ?それとも何かい、昼間には会えない女との、禁断の恋ってやつですか」

こいつの勘の良さは昔から知っていたが、まさかこんなに簡単に言い当てられてしまうとは。つい咥えていた煙草を落としそうになってしまう。総悟は暗がりの中でも充分に分かるほどにたにたと笑い、何度も頷いてみせた。

「当たっちまいやしたか。しかも後者」
「・・・・・・」
「ま、土方さんがそんなに入れ込むたァ、さぞいい女なんでしょうねィ・・・」

総悟はそう言って暗い廊下に消えていった。
俺は後味の悪さを抱えたまま、ついでに頭も抱えて、屯所を出た。

不倫なんてのは暇人のすることだと思っていた。それも大体が既婚者の男と独身の女のものだと思っていたが、俺が今嵌っているのはその逆のもの。俺がどれだけに惚れようと、は既に違う男のもので、永遠に俺のものにはならない。二人で日なたを歩くことは出来ない。別に昼間に会えないことをとやかく言うわけではないが、こうして夜中にかぶき町の宿で落ち合う関係はあまりに脆いと思う。しかもこれは俺にとってただの不倫ではない。もし露見すれば、俺は職を失いかねないのだ。の亭主が幕府のどの位置に属する役人かは知らないが。

徒歩でいつもの宿に向かうと、宿の傍の自動販売機のところには立っていた。俺に気付いて少しだけ口元を緩ませるその姿に、全身が粟立つ覚えがする。の身の安全を思えば、もっと離れた安全なところで待ち合わせする方がいいのだが、がそれを拒んだ。二人で外にいる時間はなるべく減らそうというのがの言い分。俺もそう言われれば頷くしかなかった。俺達は宿の前で落ち合い、消えるように宿へと入っていくのが常だった。

通された部屋に入るなり、の体を壁に縫い付けた。少し力が余ってしまい、は痛みに声を上げる。何でこんなに手荒な真似をしているのか、自分でもよく分からなかった。

「どうしたんですか、土方さん。ちゃんと、布団で、」
「立ったままってのもたまにはいいだろ」
「や、でも・・・っ」

の襟を無理やり肌蹴させ顔を寄せると、の肌からは僅かに甘い石鹸の香りがした。律儀にも、俺と会う前には必ず風呂に入ってくる。俺は別にが風呂に入っていようといまいと気にしないのだが、もし風呂に入ってこなかった場合、違う男のにおいがするんだろうか、と、余計なことを思いついてしまい腹が立った。

セックスしか能の無い女なら良かった。それなら人妻だろうが何だろうが構うことはなかったのに。俺はもうすっかりこいつに惚れているらしい。恋愛に淡白だった筈の俺のどこに、こんなに烈しい独占欲があったのだろう。

「あ、やっ、土方さん・・・っ!」

が首を振って目を瞑った。壁に背中をぎりぎりと押し付けられているこの体勢に、最初こそ躊躇いを見せていたが、こうなってしまえばただもう嬌声を上げるだけだ。本当にどこまでも俺好みで困る。細い両手首を頭上で纏めてやれば、何となく支配欲が満たされる。気付かれないように俺は喉の奥で笑い、の体を更に壁へと追いやった。



「今日、何かあったんですか?」

まだ息を弾ませたまま、が熱っぽい目で問うた。俺は窓際で煙草を吸いながら、布団の上に横たわっているを一瞥する。白い体を惜しげもなく晒しているその姿は、とても人妻には思えない。まだ男を知らない生娘のようにすら見える。

「何でそう思う」
「何となく・・・いつもと違う感じがしましたから」

安っぽい銀の灰皿に煙草を押し付けると、俺も同じように布団に横たわった。そしての体を抱きしめてやる。こんなに抱き心地の良い女はこいつが初めてだ。俺のものではないが。

「今日ここに来る前、総悟にバレちまった」
「バレたって・・・何がですか、まさか、」
「そのまさかだよ。参っちまうよアイツには」

少し自嘲気味にそう言うと、が不安げに顔を上げた。

「大丈夫・・・なんですか?」
「まァ心配いらねえだろ。アイツもそこまでガキじゃねえ」

そうだ、総悟は俺の色恋にやたらと構いたがるが、それを邪魔したり口外したりすることは無い。そんなくだらないことを総悟は好まない。それは分かっている。だから、総悟にこのことが知られてしまったことも大したことでは無いのだ。分かっているのに、何故、俺はこんなに今日ざわついているんだろう。

抱きしめる腕に力を込めると、もゆっくりと俺の体に腕を回した。非力な細い腕だ。しかしその腕が俺の体を抱くだけで、俺はこんなにもほっとする。この腕があればいい、と思えてしまう。例え昨夜は違う男を抱いていたとしても。こうしている限り、は俺のものだと思える。

「・・・土方さん、私を、捨てないで下さいね」

口の中でもごもごと、まるで寝言のようには言った。
それを聞いた瞬間、巨大な悲しみのような不快感が、どっと押し寄せてきた。捨てないで、だと?それは俺の台詞だろうが。そう言ってやりたいのに、その不快感が喉を塞いで上手く言えない。不思議なことに怒りは一切無く、ただただ大きな悲しみが、体の底でわなないていた。

今まで女に対して、捨てるななどと言ったことはおろか、思ったことすらなかった。それは俺が今まで本気で女を好きになったことが無かったからなのだろうか。そしてつまり、俺は今初めて本気で女を好きになったということになるのだろうか。は永遠に俺のものにはならない女なのに?そんなことって、あるか。

「俺は捨てねえよ」
「本当に?」
「ああ。・・・捨てられりゃ、苦労しねえよ」

これが恋愛と呼べる代物なのかは知らねえ。ただ、これが露見してしまったら、も俺も限りなく多くのものを失うだろう。それでもこの手を離せないのだから仕方が無い。苦しくても歯痒くても、俺はこの女に惚れているんだ、間違いなく。全てを失う覚悟など、初めて抱いた夜からとっくに出来ている。さあ、もう一度俺の下で啼いてくれ。