かなしみの飛沫




もう随分と昔のことになる。貴族の名を背負いながらその名を忌み嫌い、自由奔放に走り回っていたという女は、何かある度に剣術の稽古をする私の元へとやって来ていた。おそらく私より2つか3つ歳が若く、あの頃は「白哉君」という呼び方をされていた。そんな呼び方をするのは、後にも先にもこの女だけであった。

「ねー、つまんなくない?遊びに行かない?」

人好きのする笑顔をたたえて話しかけてくる姿は、とても貴族の娘には思えなかった。品がないというより、自覚がない。とにかく無邪気で、まるで羽根が生えているんじゃないかとこちらに思わせる程、ふわふわと軽い立ち振る舞いをした。

「私、知ってるの」

剣の稽古をしていた私は、女の呟きなどほとんど聞いていなかった。振り下ろす竹刀が空を切る音だけに耳を澄ましていた。

「私ってメカケの子だから、本当は母上に忌まれているの」

聞きたくなどなかったのに、その台詞だけはやけに鮮明に耳に滑り込んできたのだった。当時は私も幼く、そのような話題は上手く取り扱えなかった。妾の子がいることなど、貴族においてはそう珍しいことではない。そのことを理解できる今なら、もう少し何か言えたかもしれないと思うのだが。

「貴族貴族って、何か悪いことの呪文みたいに聞こえない?」

女は貴族を忌み嫌っていた。

「でも白哉君は本当に上品な人だと思うから好き」

幼い子供の、意味を持たない戯言であった。手入れされた長い黒髪を惜しげもなく振り乱して、奔放に駆け回る。自分自身の将来を知っていた私にとって、この女の生き方は、どこか恐ろしささえ思わせたものだった。



衣擦れの音がして目が覚めた。

「・・・あ、起こしちゃった」

大して悪いと思っていないような口調。女は布団の上に体を起こし髪を束ねている最中で、寝ている私を見下ろし微笑んでいた。

「あなたって寝顔さえも綺麗だから驚いたわ。ずっと寝ていてほしいと思う位」
「・・・くだらぬ事を」

女は更に衣擦れの音をさせながら布団から這い出ると、障子戸の前に移動してその格子部に指先を掛けた。私は自身の腕の痺れを感じながら、ゆっくりと体を起こす。この腕の痺れは、確かに昨夜、この女を抱いていたという証拠に他ならない。

「あの白哉君とこんなことになるとは思わなかった」

女はこちらを振り返って言った。障子越しに入り込む朝陽に、髪を束ねた女の首筋はいっそう白く見えた。

「・・・悔やんでいるのか」

私が問うと、女はゆったりと首を横に振る。

「まさか。ただ、夢が覚めてしまったと思っただけ」

そう言って微笑む女は、確かに後悔こそしていないようだったが、何か酷く悲しそうに映った。他人の感情の機微などわずらわしいものでしかない筈なのに、無意識のうちにこの女のことを探ってしまう自分がいる。

布団から立ち上がり女の傍に腰を下ろせば、女はまっすぐに私を見つめてきた。聡明そうな顔に、幼い頃からは想像もつかぬ、複雑な感情が浮かんでいる。この女も歳を重ねて、色々なものを手に入れ、そして失ってきたのだろうか。くだらぬことを考えていると自身を嘲りながら、それでもこの手は、女の頬に向かって伸ばされる。女は静かに睫毛を伏せた。

「・・・・・・ずっと、焦がれていた」

この頬に。髪に。身体に。声に。存在に。
貴族でありながら陰を背負い、しかしその陰に縛られず生きるこの女に、ずっと。

女は目を瞠って暫く黙っていたが、そのうちやんわりと、頬にあてがった私の手を退けさせた。その時に触れた手の細さが、言葉に出来ぬほど私の胸を締め付ける。

「・・・・・・そんなことは昨夜のうちに聞きたかった」

女は目を伏せたまま、震える声でそう言った。

(全てを思うままにする権利があるのに、何も思うままにはならない)