星が、降ってきそうだ。 そう言って夜空に手をかざしたのは、いつのことだっただろう。あの夜はすごく寒かった。部屋から持ち寄ったブランケットに2人で包まりながら、見上げたあの空の色。風が冷たくて吐く息はもれなく白い靄になって、だけど冷えた私の指先を包む彼の手だけが、温かかった。 手のひらのざらざらした感触とか、節くれ立った指の力強さとか、彼にとっては何でもない当たり前のものが、私にとっては何より愛しくて貴重なものだった。隣にいる彼の肩口に頭を預ければ、そこはどこよりも安心できる私だけの楽園だった。ああ、そうだ、楽園。どんなに悲しいときも悔しいときも、あの頃は全てが楽園のような日々だった。 寒い夜のほうが、おれは好きだな。 私だって同じだよ。理由は沢山あるけれど、多分どれも君と同じだと思う。例えば、星が近いこととか、辺りが美しく静まり返っていることとか、2人が肩を寄せ合えることとか、いつもよりその体温が愛しく思えることとか。 寒くて凍えそうな夜さえも、一瞬で楽園に変えてしまえる。きっとあの頃、彼と私はそんな魔法を知っていた。ただ隣にいるだけでよかった。本当に、それだけで。 ◆ かつて白ひげ海賊団の名によって守られていた島々の治安は、先日の戦争のあと、酷く混乱していた。その混乱を収めるのが先決だというマルコの言葉に従って島々を転々としているけれど、治安の安定なんてものは本当に一時的なもので、いくら海賊を討伐し壊された町を修理しても、私達が島を出てしまえば、治安なんて文字はやはりそこから消え失せてしまうに違いなかった。 この島での宿はツインルームで、同じ部屋になったのはまだ二十歳にもならない若いナース。彼女は乗船して間もなく起こった先日の出来事に相当参っているらしく、毎晩泣いていた。そして日焼けのない滑らかな頬を涙でぐしゃぐしゃにして、はっきりと言う。「さんは悲しくないんですか」と。 私はその問いかけに、いつも曖昧に微笑み返すだけだった。そうすると彼女が酷く不満げな顔をすることはもう学習していたけれど、ほかに言えることなどは何もなかった。ベッドでぐずぐずと鼻を鳴らし続ける彼女は、何て可愛らしいのだろうと思う。私もそうやって、素直に泣けたら。ベッドに潜り込んで、悲しいよ、と言葉に出来たら。 彼女が泣き疲れて眠ってしまうのをじっと待ちながら、私はハンガーに掛けてある白いワンピースに手を伸ばした。細い肩紐が胸元の浅いV字、そしてゆるやかなドレープを描く膝丈の裾へと繋がっている。体のラインに沿うよう胴体部分には細かなギャザーがあしらわれていて、サテンでできた表面部は光の加減でゆらゆらと輝く。シンプルなデザインでありながら高級感のあるこのワンピースは、以前ある島に停泊した時、エースが買ってくれたものだった。 「なァ、あのワンピース、どうだ?」 「え、あれ?エースってああいうシンプルなの好きだっけ?」 「いや、女の服のことはよくわかんねェけど…、あれは何か、いい」 「ふうん、それなら着てみよっか?」 「あァ。…何か、ウエディングドレスみたいだ」 思いがけず登場した単語に、足元が躓きそうになったのを今でも覚えている。ショーウィンドウに飾られていたこのワンピースを、エースはウエディングドレスのようだと言い、それを私に着せようとした。それだけで私は胸を高鳴らせてしまったのに、そのワンピースを身に着けいざフィッティングルームのカーテンを開けたとき、もう隠しようもなく頬が熱くなってしまって困った。なぜなら、そこに立っていたエースが、まるで何かすばらしく美しいものを見るような目で、私を見ていたからだ。 「……こりゃァ、お前のためにあるようなもんだな」 そのワンピースを私は、その試着以降、たったの一度もエースの前で着なかった。いつかとっておきの日に着るんだと、心のうちに決めていたから。なぜもっと、見飽きる程に着ておかなかったのだろう。―ああ、もう、こんなことになるのなら、毎日でも着ればよかった。悔やんでも悔やみきれないそんな歯痒さは、日が経つごとに増してゆく。 ◆ 漆黒の夜空と、それを映したかのような闇の海。深く息を吸えば、濃厚な潮の香りが体中に満ち溢れていくよう。気付けば私はそのワンピースを身にまとい、名前も知らない浜辺に来ていた。 寄せ返す波の音に、胸がざわめいて仕方がない。深呼吸を繰り返して何とか落ち着かせようとしてみるものの、ざわめきは大きくなるばかり。そのうちざわめく音が波の音より大きくなって、私の中から零れ出ていた。止められないその音は、嗚咽となり涙となり、私の頬を滑り落ちる。今頃ベッドの中で寝息を立てているナースの彼女より、ずっと日に焼けて、ところどころに小さな染みさえ見つけられる私の頬にも、同じ透明な涙が流れ出していた。 「…ぅ、ううっ、」 漏れ出す声が我ながらあまりにも苦しげだったので、私は慌てて両手で口元を覆う。しかしどうやらもう止めようがないらしかった。指の隙間からどんどん呼吸の音と声とが溢れ出して、自分の意思の範疇を超えてしまっている。 どうしよう、どうしよう。こんな風に声を上げてはいけない。こんな風に涙を零していい筈がない。頬が冷たい、いや熱い、濡れている、喉の奥が狭まってしまったように息苦しい。 一度決壊した感情は、簡単には元に戻らない。感情の大洪水。塞き止めるものは見つからない。思考の螺旋階段を落ち続けて、感情の洪水の中で酸欠に陥って、一体私はどうなってしまうんだろう。つかまるものが何もない、引き上げてくれるものも見つけられない。こうやって声を上げて涙を流しても、目に映るのは真っ黒な海だけで、何の美しい幻覚さえも見られない。 見たい、見たい、会いたい、触りたい、抱き締めたい。どうしよう、ねえ、エース、どうしよう。このまま朝が来なかったら。私の涙が止まらなかったら。海水が満ちきってこの砂浜を飲み込んでしまったら。ねえ、どうしよう。ねえ、ねえ、ねえ、いつになったらこんな風に語りかけることは無くなるの。返事の無い夜には、もううんざりだよ。 「…風邪ひくぞい」 その時、突然背後で聞こえた声に、私の体は反射的に竦みあがった。漏れ出ていた声が一瞬喉の奥に引っ込んで、呼吸のリズムが変わってしまう。 独特の口調に、聞き覚えのありすぎる声。そして、優しすぎるその気配。振り返らなくても、そこにいる人物はすぐにわかった。息苦しさに目を瞑りながら、二度三度と深呼吸を繰り返し、ようやく私は振り返る。 「女が出歩く時間じゃ無ェ。早く宿に戻れよい」 後ろに立っていたのは、やはり予想通りの人物だった。へたり込んでいる私は恐る恐る視線を持ち上げて、彼の表情を窺い見る。星明りでその顔に淡い陰影を落とした彼は、ほとんど無表情。吹き付ける潮風に、金色の髪が揺れている。 「………マルコこそ」 「おれの心配なんざいらねェ」 首の後ろをがりがりと掻きながら、気だるげにマルコは言った。私は振り返った体勢のまましばらく黙っていたけれど、ふと自分の頬を濡らす涙のことを思い出し、指先でそれを拭い取った。喉の奥が詰まったような熱い感覚を、無理やり飲み下す。 マルコはいつからここにいたんだろう。もしかして私のことをずっと見ていたんだろうか。あんな風に、惨めに泣き喚いていた姿を。そしてそれを見ていたのだとしたら、どう思っただろう。私はいつもなるべく泣かず、怒らず、気持ちを乱さぬ姿を彼に見せてきたつもりだから、そんなことが気にかかってしまう。 「…いつまでそんなとこに座ってんだ」 ホラ、と言って、マルコが手を差し伸べてきた。しかし私はその手を一瞥しただけで、視線を地面に落とす。すると焦れたように、マルコの手が無理やり私の腕を引っつかんで立ち上がらせた。 涙の余韻が喉の奥で震えている。私はマルコの目を直視できず、ひたすらに俯いていた。潮風に、ワンピースの裾が泳ぐ。こんなに暗いのにその裾だけはきらめいて見えた。きっと泥まみれになってしまっただろうなぁ。あんなに大事にしていたのに、こんなタイミングで泥をつけてしまうなんて。だけどこんなタイミングでしか、私はこのワンピースに腕を通せなかった。それが今ここにある確かな事実。 「帰るぞい」 マルコの声は、怒っているときのように低く落とされていた。しかし私は素直に「わかった」や「ごめんなさい」などとは言えない。マルコだって私がそう言えないこと位わかっているくせに、と、今にも口をついて出てしまいそうになる。泣き叫ぶ私を見ていたくせに、と。 「……痛いから離して」 ぽつりと言うと、ようやく腕から手が離された。掴まれていた部分をわざとらしく擦ってみせるも、マルコは何も言わない。マルコこそ、乱暴にしてごめん、くらい言えばいいのに。だけどきっとマルコも私と同じで、素直になれないのだと思う。 「…朝までには帰るから、マルコは先に帰ってて」 「バカ言ってんじゃねェよい。こんな治安の悪い町で、」 「大丈夫だから!」 急に声を荒げたことで、マルコは一瞬驚いたような顔をした。しかしすぐいつもの仏頂面になって眉間に皺を寄せる。私はその顔を強い眼差しで睨み付けた。 「もう、…大丈夫だから」 こんなものでマルコが大人しく宿に戻る筈が無いということは、もちろん分かっていたけれど。でも他にどうすることが出来ただろう。目の前にある小さな問題を1つ解決することくらい、何てことは無い筈なのに。もうそんなことすらもできなくなってしまったの? 私はそのままマルコから離れるように1歩2歩と後ずさり、砂浜に詰め寄ってくる波に足を浸した。不思議と冷たさは感じなかった。だから私は海に背を向けたまま、少しずつその中へと足を進めていく。マルコが怪訝そうな顔でそんな私を見つめていた。 「…なに、してんだよい」 陳腐な質問だと思った。私はそれを鼻で笑うと、くるりと体の向きを変えて、今度はマルコに背を向けた。そうすると急に視界の色が変わった。一面真っ黒な世界。空も海も同じ色で、はるか水平線の先にあるのは小さな船の光。海賊船か、海軍か、それともただの漁船かな。分からないけれど、私はその光を目指そうと思った。目の前にある小さな光、それが今の私に見える唯一の救いのように思えた。 ざばざばと、足が重い海水を切り分けていく。足首、脛、膝、どんどん水位は上がって、下腹部までが海に浸る。ほとんど無心の行動だった。水平線の向こうに見える光が私を手招いている。こっちに来れば楽になれるよと、言っている。ああ、だったら行かなくちゃ。私は本当は、本当は、 「!」 気付けば海水はもう胸の下まで迫っていた。名前を呼ばれ振り返ると、能力者であるマルコが膝の辺りまで海に入ってきているのが見えた。私は反射的にまたマルコに背を向ける。 マルコが私を追いかけてきているのだということは分かった。私を止めようとしているのだということも。だけど私はそのマルコの優しさが、まるで剣の切っ先のように恐ろしかった。そんな風に手を伸ばされて下手に救われてしまったら、今目の前にあるあの光の意味がなくなってしまう。 もうほとんど混乱していた。逃げるように足を進めると、不意に水位が上昇して、私の肩、それから顎のラインまでを海に浸した。このまま泳いでしまおうと私は両腕を水の中で広げ、地面を蹴る。ワンピースのせいで酷く泳ぎ辛かったけれど、それでも私はやめなかった。水をかく腕が、私ではない何かに動かされているようだった。 光との距離はなかなか縮まらない。そう思いながら、ふと、少し遠くで名前を呼ばれた気がして、私は泳ぎを止めぬまま再び振り返った。そして背筋が凍りつきそうになった。さっきまで私を追いかけようと海に入ってきていた筈のマルコの姿が、ない。 「……マルコ?」 私の体はもうずいぶん沖の方にある。砂浜を見渡しても、海上のどこを見渡しても、マルコはいない。さあっと全身が強張りかけて、一番考え付きたくないことが考え付いてしまった。 私は慌てて体勢を変え、勢いよく海の中に潜った。薄っすらと目を開けてみてもそこに広がるのはただひたすらに暗闇だけで、何も見えやしない。どんどん浜辺の方に向かって進みながら、極限に悪い視界の中で、必死に見慣れた姿を見つけようとする。駆け巡る最低の予感を無視できない。そうして私は暫く潜り続け、ようやく、海中を漂う力ないマルコの姿を見つけることができたのだった。 ◆ 自分の体重の2倍近くはあろうかという男の体を海から引き上げ、やっと砂浜まで辿り着くと、限界だったのか両膝ががくりと落ちた。それに伴い、肩に腕を回させて運んできたマルコの体も地面に落ちる。そしてそのまま腕を離すと、マルコは砂浜に仰向けに倒れこんだ。 四つん這いになって荒い呼吸を繰り返す私と、片腕で目元を多い、私よりずっと苦しげな呼吸音を立てるマルコ。私はその音を聞きながら、言いようの無い感情が湧き上がってそれが爆発するのを抑えられなかった。 「…っ何考えてんのよっ!バカじゃないの!?」 威勢よく言うと、水を飲んでしまったせいか激しく咳き込んでしまった。しかし、滲んだ涙を拭いながらなおも私は怒鳴り続ける。 「能力者のくせに海に入るなんて、信じらんないっ!力だってろくに入らないくせに!ほんっとバカ!」 マルコは聞いているのかいないのか、ぜえぜえと苦しげに喘ぎながら、反論1つしなかった。 私が悪いということは分かっているのだ。私がマルコの言うことを聞かずにどんどん沖の方へ進んでいくから、マルコがそれを止めようとしてくれたのだということは分かっている。だけど、やはり素直にはなれなかった。あの瞬間、たったほんの数分の間に目指した水平線の光は、遠かった。もうずっとずっと遠かった。泳いでも絶対に届かないと、たぶん私も分かっていた。だけど。 ようやく呼吸の落ち着いてきた私は、乱れた髪を整え、四つん這いの体勢から上半身を起こして座り込んだ。疲労感の漂う沈黙。言葉を探すことも何かの救いを探すこともしない、無の時間。するとマルコが急に身を起こしながら激しく咳き込みだしたので、私は慌ててその背中を支えた。きっとかなりの水を飲んでいるし相当苦しいのだろうと思う。意識を保っているのが不思議なくらいだ。 「……ねえ、大丈夫?」 顔を覗き込むようにしながらそう言った瞬間、私はマルコに勢いよく抱き締められた。あまりに突然のことで、私は身を固くする。しかし後頭部に宛がわれた手が震えているのに気付くと、なんだかどうしようもなく、泣けてきそうになった。厚い胸板が苦しげに、忙しなく動いているのが分かる。きっと私の想像よりずっと苦しいのだろう。あの真っ暗な海の中できちんと見つけられてよかった、と本気で思った。 「…どうしたの?」 「……………まで、」 「え?」 私はゆっくりとマルコの背中に腕を回した。そしてその首元に顔を埋めながら、思う。マルコが私を抱き締めたのは、泣きたかったからなんじゃないかと。涙を見られたくないがために、抱き締めたんじゃないかと。それなら案外マルコにもかわいいところがあるな。わざわざ誰もいない砂浜で泣き喚く私なんかより、よっぽど。 「……もしお前まで死んじまったら、おれァどうすりゃいいんだよい…」 耳元で囁かれたそれは、消え入りそうな声だった。 マルコ。私は、死にたかったわけじゃないよ。死のうと思って海に身を浸したわけじゃない。ただ、先に見えるあの光が欲しかっただけ。あの光に触れられたら、今ここにある憂鬱なこと全てが解決するような気がしただけ。頭の中にあったのはただそれだけで、死ぬとか生きるとか、そんなことはもうどうだってよくなってた。ごめんね、正直に言えば、今ここにいるマルコのことなんてこれっぽっちも考えられなかった。マルコが今どんな悲しみの穴のなかにいるか、私は想像さえもしなかった。マルコならきっと大丈夫だって思ってた。だけど、そうだね、マルコだって声を上げて泣きたかったんだね。私みたいな小さな女一人追いかけられない自分のこと、責めた?それなら、そんな必要は無いと、今すぐ言ってあげなくちゃ。 「………ごめん、マルコ…」 もっと言いたいことはあったのに、あとの言葉は全て涙に奪われてしまった。 ねえ、エース。 あの夜本当に手が届くんじゃないかって思った星空が、今はもうこんなにも遠いよ。ねえ、エース、あなたの後を追っていきたいと思えない私を、あなたはどんな風に思う?冷たい奴だ、って思う?酷い女だ、って?…でもね、こうして問いかけてながら、本当は分かっているんだ。エースならきっと、「ずっと待っててやるからしっかり生きろ」って、言うよね?そして本当にずっと、あなたの楽園で待っていてくれるよね。本当に、そう思う。そう思わせてくれたのは、間違いなくあなただよ。私はあなたを信じているの。今でもずっと。 こんな青い夜にも、どんなに美しい朝にも、あなたの姿はもうないけれど。それでも、たった1つの思いはちっとも褪せずにここにあるんだ。だから、ねえ。これからもずっと、見えないその手で私を守って。 |