元より眠りは浅い方だった。海上生活で深く眠りこけてしまうことほど無用心なことは無いし、ましてや白ひげ海賊団1番隊隊長なんて立場にあるのだ、深く眠れるほど気が休まる筈も無い。しかしその癖が、ここにきていっそう深刻になった。 今までは、いくら眠りが浅いとはいえ、眠ろうと思えばすぐに寝付ける方だった。しかしここ最近は、ベッドに横たわって寝返りを打ちながら、平気で数時間も持て余してしまう。ここが船のベッドではなく、慣れない宿のベッドだからということもあるのかもしれない。しかしこのベッドは船のものよりスプリングが利いていて、シーツも毎日取り替えられ、はるかに質はいい筈だ。それなのに、眠りの質だけが追いつかない。ベッドサイドの灰皿が吸殻に埋め尽くされてゆく。 眠れない状況に嫌気が差して、散歩にでも出ようと部屋のドアを開けた。両手をポケットに突っ込んだまま宿の階段を下りていくと、ちょうどビスタが、おれとは反対に階段を上ってきたところだった。ビスタはおれに気付くと、露骨に眉を顰めてみせる。 「どこか出かけるのか?マルコ。もう0時過ぎだぞ」 「……ちょっと散歩でもしようかと思ってよい」 おれは足を止めぬままそう答える。ビスタが一瞬神妙な面持ちを見せたが、それには気付かない振りをした。言いたいことは分かるのだが、それに対する上手い返事が分からないのだ。狭い階段をすれ違った瞬間、ビスタからは冷たい外気の香りがした。 階段を降りきって宿の扉に手をかけると、「マルコ」と上から名前を呼ばれた。呼ばれた方を仰ぎ見てみれば、ビスタが吹き抜けの階段の手すりから身を乗り出しておれを見ている。ただでさえ薄暗い階段の明かりをその体が遮って、表情はほとんど見えなかった。 「あまり遅くなるなよ。…他の船員が心配する」 きっとビスタもついさっきまで1人で外に出ていたに違いない、だから、おれの気持ちはよく分かってくれているのだろう。その口調にはあまり咎める気配はなかった。おれは軽く片手を上げてそれに答えると、重い扉を押し開けた。 小さな島の真夜中は静まり返っている。建物の明かりも点いていないし、人の気配も感じられない。かつて白ひげ海賊団という名に守られていたこの島は、先日どこかの粗暴な海賊に、町外れを荒らされていた。おれ達がここに来たのはそれより数日後のことで、島の人々はどこか、落胆したような表情をおれ達に見せたのだった。お前達にもう力は無い。そう言われているようだった。 肩に圧し掛かり、足にまとわりつく無力感は、気のせいなどではない。きちんと根拠のある無力感。おれ達は実際に、この島の人々には何もしてやれなかった。いや、してやれることがなくなった、というほうが正しい。おれ達は、失ってしまったのだ。 目を閉じれば今もあの喧騒が蘇ってくるようだった。砲弾の割れる音。剣と剣のぶつかり合う音。鼻につく硝煙のにおい。途切れぬ怒号、悲鳴。もうあれは戦争というより惨劇といってよかった。いや、戦争なんてものは決まって惨いに違いは無いのだが、しかしあれは本当に酷かった。おれ達は目の前で、船長であるオヤジと、そして仲間であるエースを同時に失った。それはあまりにも大きい喪失だった。その巨大すぎる喪失は、絶望と呼ぶに等しかった。この海にある絶望の全てがあの場にあったんじゃないかとおれは思う。 そんなことを考えながらどこへ行くでもなく足を進めていると、いつの間にか海の方に向かっていたらしく、少しずつ潮の香りが強くなってきた。耳を澄ませば波の音も聞こえてくる。近付いてくる海の気配に、どうしようもなく安堵し、そして気が付く。おれはこんな時にでも海に出たいのだ、と。あまりにも大きなものを失った、こんな時にでも。 砂浜までやって来れば、べたつく潮風に思わず涙が出そうになった。勿論実際にそれ位のことで泣くはずも無いのだが、それでも、その風を懐かしいと感じた。このまま海に出てしまいたい。そう思いながら、一歩ずつ砂浜に足を進めていく。柔らかい砂の感触を足裏で味わいつつ、ふと目線を砂浜の先にやった時。おれは一瞬息を呑んでしまった。誰もいないと思っていた砂浜の先のほうに、白い人影が見えたのだ。 「………?」 思わず呟いたのは、仲間であるの名だった。 今は暗い海の波打ち際にいる。暗くてよく見えないが、海賊のくせに普段から洒落たワンピースなどを好んで身に着けるあの華奢な後姿は、間違いなくだった。寄せ返す波に濡れることを厭わず、波打ち際にへたり込んでいる。確か今着ているあの白いワンピースは、相当なお気に入りだと話していたやつじゃなかったか。あんな所に座っていては、濡れるどころか、砂で汚れてしまうだろうに。 何でこんな時間に。自分のことは棚に上げて、そんなことを思いつく。戦闘員としてそこそこ戦える力があるにしても、あいつは女だ。いくら何でもこんな時間に、しかもこんな治安の悪い町で、一人になっていていい筈がない。これは一つ厳しく言ってやらなければ、と息を吸い込もうとしたとき。おれは聞きたくないものを聞いてしまった。 寄せ返す波音の合間、聞こえてきたのはの声。しかしその声を文字化することはおれには出来なかった。いや、おそらく声を発したとて、冷静に言葉を発しているわけではないのだろう。それはまるで悲鳴だった。言葉ではなく声そのものに意味のあるもの。絶叫というのでもなかった。切羽詰ったようなものでもなかった。それはただただ、悲しい泣き声だった。冷たい空気を鋭く切り裂くようなその泣き声に、おれはそれ以上動くことができなくなった。 幼い頃から海賊として生きてきたからなのか、は滅多なことでは涙を落とさない女だった。海賊の女が総じてそうであるように、もまた気が強く、冷静な女だったのだ。だからおれはが泣くところを一度しか見たことがない。それは、ついこの間のことなのだけれど。船員の皆がわんわんと泣き崩れるところに、も同じように立っていて、そして涙を流していた。しかし他の皆のように、声を上げて泣くような素振りはちっとも見せず、静かに目元を拭っていただけだったから、おれは一種の感慨さえ覚えたのだ。 あの荒れ果てた戦場で、ただ静かに涙を流して悲しんでいるを見て、さすが海賊の女だとおれは思った。しかしそれは大きな誤解だったことに今初めて気が付いた。深夜の海の波打ち際にへたりこんで、痛々しいほどの泣き声を上げているのは、海賊の女なんかじゃない。恋人を失った、ただの一人の女だ。 今までの人生の中で、おれはこんなにも他人の感情を、ダイレクトに受け取ったことがあっただろうか。泣いているの声がするすると胸の中に侵入してきて、その声が容赦なくおれの胸を締め付ける。もう息が出来なくなるほどに。 できるなら、見なかったことにしたかった。聞かなかったことにしたかった。正直、どうすればいいか分からなかった。おれの知るというのは、絶対にこんな風に泣いたり取り乱したりすることのない女なのだ。悲しい感情はいつも自分の中に押さえ込んで、それでいて無理に笑うのではなく、飄々としているような女だった。 海には悲しいことなんかいくらでもあるよ。その度に泣いてちゃキリがない。 いつだかは笑ってそう言っていた。強がるなよ、とおれが冗談めかして言っても、表情1つ変えなかった。 私は本当に悲しいときにしか涙は使わないよ。 今がその、本当に悲しいとき、なんだろうか。切ない泣き声を聞きながら、おれはどうしようもない後悔を覚える。おれはきっとに甘えていた。あの戦争のあと、人並みに悲しんで人並みに無理をしていると分かるに、甘えていた。めちゃくちゃに塞ぎ込んでいたり痛々しくなるほどの笑顔を作っていたりしたというなら、さすがにおれも、優しい言葉の1つや2つは掛けてやれていただろう。力になれぬと分かっていながらでも、あいつの好きな甘いミルクティを1杯淹れてやる位のことは、してやれていたと思う。しかしおれの目に映ったには、その必要は無いように思えた。だから。 とエースが恋人同士だったことは、多分おれと、他には数人しか知らないだろう。あいつらは若いなりに周りの空気をきちんと読むことが出来る二人だった。だから、自分たちの関係のせいで船の雰囲気を変えたくはないと考えたのだと思う。しかし誰の目から見ても、互いが互いを何より大事に思っていることは明らかだった。エースがを見つめるときの眼差しや、がエースを呼ばわるときの声色は、この世界の何より美しいんじゃないかと思うほど、澄んでいて胸に迫るものがあった。ただ、もうその美しいどちらとも、二度と味わうことはできないのだが。 (…そういやあいつらが二人で居るところを最後に見たのは、もうずいぶん前のことだ) おれは無理やり頭の中を冷静な思考で埋めた。エースが船を出てからの日々のこと。いつもと何ら変わらぬ笑顔をたたえていた。一体どんな気持ちで、過ごしていたのだろう。きっと、寂しかっただろうな。そんな素振りは一度も見せなかったが、きっとあの小さな体で、幾度となく孤独で凍えそうな夜を明かしたのだろう。 (いっそ壊れちまえばいい) 泣きすぎて声を上げすぎて、いっそのこと、もう壊れてしまえばいいんだ。そうすりゃおれ達は、躊躇わずにお前を救おうとできるのに。だがきっとはこの夜が明けたら、いつも通り、ゆっくりと朝食のフレンチトーストをかじっているのだろう。そして遅れてダイニングにやってきたおれに、「おはようマルコ」なんて、平気な顔をして言うのだろう。はおれ達に救う手立てもきっかけすらも与えはしないのだ。 繰り返される波音の間隙に、の悲痛な泣き声が混じる。空を仰げば無名の星々。今夜は月は出ていない。ああだからこんなに暗いのか。だからこんなに、気持ちがざわめいてしまうのか。 (…泣くなよ、) なあ、エース。 お前のが泣いてるよい。お前が抱き締めてやらなくて、他の誰があいつを救えるっていうんだ。いつだかお前は、「マルコって本当に何でもできるよな」なんて言っていたが、見てみろエース。今のおれは、目の前で泣いてる仲間に手を差し伸べてやることも、優しさをもって1人きりにしてやることさえも、何もできないでいる。お前が言った「をよろしくな」というほんの些細な願いさえ、おれは叶えてやれないんだ。 君が思うよりずっと (あいつはお前しか欲しくないんだから) |