気管支の中に閉じ込めていた息をようやっと吐き出したら、それが思いのほか熱かったのと、上ずった声が同時に漏れ出てしまったのとで、私は慌てて口を塞いだ。そんな私を、エースが興味深げな目で見あげてくる。そして無骨な手が伸びてきたと思ったら、口に宛がっていた手をあっという間に絡め取られて、そのままシーツに縫いとめられた。 「我慢すんな」 両手の自由を奪われて、白くなりゆく頭の中でふと思う。海賊っていうのは本当に奪うことが好きだなぁ、と。エースはこうして私の手の自由を奪い、呼吸を奪い、そして目には見えない気持ちさえも軽々と奪ってゆく。私だって海賊なのに、こんなに奪われてばかりでいいのかな。だけど私はもう、奪われる快感を知ってしまっている。好きな男に欲しがられること、それは何と気持ちがいいのだろう。 ねえエース。私は、自分の体がこんなに熱くなることとか、いつか壁越しに聞いたことのある女の人のものみたいな声が出てしまうこととか、それが信じられないの。エースもそれを信じられないんじゃないかと思うと、すごく怖くなる。今の私が恐れることは、エースに嫌われてしまうこと、ただそれだけだから。 「おれがお前を嫌いになるなんてこと、ある筈が無ェ」 あなたは屈託なくそう言って笑うけど。でも分からないでしょう?惜しみなく与えられるこの愛を、信じられないわけじゃない。だけど、この海では確かなものなど何もないから。この海で唯一確かなことは、まさにそのことだけなのだから。ねえエース、私はあなたを信じているよ。ただいつも不安なの。それを、言葉にすら出来ないほどに。 サッチが殺されたのは、私達がそうして体を重ねているまさにその瞬間だった。情事を終え、気だるさに身を任せながら、うとうとと他愛も無い話をしていたとき、急に廊下が慌しくなったのだ。エースが面倒そうに半身を起こし、「何かあったのかな」と呟く。そのとき私は、なぜか酷く嫌な予感がした。勿論その時点ではサッチが殺されたことなど知らなかったのだけれど、何か、今ここにいるエースの腕を離したら、もう二度とこんな風に抱き合うことは出来ないという気がした。 「待って」 ベッドから出て腰にベルトを回しながら、エースは私の方を振り返った。その隙に私もベッドから這い出ると、床に落としていたワンピースをさっと被って腕を通す。 「待って、私も行くから」 「きっと大したことじゃ無ェさ。お前はまだ寝てりゃいい」 「いや」 部屋を出ようとするエースの腕に自分の手を絡めると、エースは困ったような顔をした。この手を離せ、という意味だろう。私達は自分達の関係を、他の船員になるべく知られぬように心がけていた。 「いいからここにいろ。そんな格好のを他の奴に見せたくねェ」 エースはそう言って笑った。この扉の向こうに何が待っているか、あの時は本当に何も分かっていなかったのだ。 「…ちゃんと短剣持った?」 私の問いかけに、エースは短く、あァ、と答えた。 ティーチを追うためにエースが船を出ると決めたのは、それから24時間も経たないうちのことだった。滾る怒りの炎を隠そうともせずに、黙々と出発の準備をするエースの背中を、私は黙って見つめていた。いや、本当はぽつりぽつりと会話はしたのだけれど、私自身はずっと黙っていたような気分だった。 「海図は?」 「持った」 「じゃあ、薬と包帯は?」 「そんなもんは必要になってから買うさ」 苦笑しながらエースは答えて、ようやく私の方を振り返った。 「心配すんな」 そう言われたって、その言葉には何の説得力も見出せない。私は首を横に振った。例えばエースが、今荷物をまとめる手を止めて、詰め込んだ荷物を全て放り出して、その体もベッドの上に投げ出して、「やっぱやめる」と言ってくれない限りは、説得力などどこにもない。ふと目をやれば、ベッドサイドのランプの火が、ゆらりゆらりと揺れていた。 「…心配なんてしてないよ」 「ハハッ、そうか」 エースはテンガロンハットを頭に乗せ、旅支度にしては随分小さなその荷物を持ち上げた。その仕草の1つ1つが、私の胸をざわめかせると知らずに。 心配だと、言えばよかっただろうか。行かないで、と、泣けばよかっただろうか。エースの背中に抱きついて頬を寄せて、一緒に連れて行って、と、言っていたら、何か変わっていたのだろうか。今となっては意味の無い、堂々巡りの思考。けれど止むことの無い、それは後悔だ。 「おれはお前が心配だよ」 エースはそう言った。覆らない矛盾を平気で口にする、その横顔が何より愛しかった。心配だというくせに、あなたは私を置いていくんじゃない。沸々と湧き上がる感情は怒りではなかった。ただ無限に繰り返される、不安と寂しさのループ。 部屋を出る寸前、エースは一度だけ私を強く抱き締めた。その胸板に額を押し付けながら、私がこっそり唇を噛み締めていたことに、エースは気付いていただろうか。どれもこれも、もう確かめる術など無いのだけれど。 「気を、つけてね」 呟いた言葉はくぐもって、きちんと空気を震わさなかった。もしそれが最後の会話になると分かっていたら、もっと伝えたいことはあったのに。『最後』はいつだって、予告無く、非情にやって来るものなのだ。 ◆ 1人でいると、思考はどこまでも落ちていった。海底まで続く螺旋階段を、一瞬も止まらずにひたすら転がり続けるような感じ。それなら1人でいなければいい、しかし今の私は誰といても居心地が悪いし、生産性の無い優しさを向けられるのは酷く気詰まりだった。 落ちてゆく思考。光の届かない海底にまでそれは沈んでいく。酸素が無くて苦しいから、誰かに引き上げてもらいたい。だけどそんな気持ちを誰に言えばいいのか分からない。誰に言ったって、楽にはなれないと分かっているから?だけど少し前までなら、私はそんなやり場の無い思いも、きちんと口にすることが出来た。耳を傾けて、許してくれる人がいたから。 ―何でエースが。 私の小さな脳みその中を占める、強烈な疑問。 何でエースが。何でエースが。何でエースが。頭の中で繰り返して、時には口にも出して、そうしてもう随分長い間考え続けている気がする。もしかしたら生まれてきてから今日までずっと、と思えるほど。もちろん実際にエースがいなくなったのはそんな昔のことでは無いから、ただ私がそう感じているだけのことなのだけれど。だけど、もう酸素が底を尽きそうだよ。 海底に横たわってもがいている私を誰か助けて。そう願いながら、思い描くのはたった1人の男の姿。だけど彼はカナヅチだから、きっと海の底までは来られないだろう。そもそも彼はもう、海底どころか、地上にいる私の傍にさえ来られないのだし。 そんな彼に、私はもう何一つ望めない。望んだところで彼には届かないし、叶わない。そしてそれは彼にとっても同じこと。彼の望みを、私は知らない。知りたくても、知る術が無い。だって彼はもうどこにもいないのだ。 ◆ 2人きりのベッドの中で、エースはよく弟の話をした。本当の弟では無いとのことだったけれど、弟の話をしているときのエースはとても楽しそうだった。世話が焼けるんだよ、と言いながら、まんざらでもない、という顔をしていた。 「世話がかかるって点はお前と同じだな」 そう言うエースは、やっぱりまんざらでもないようで。私はその首筋に顔を埋めながら、お互い様だよ、と言い返す。すると頭上で楽しげな笑い声がする。飽きるほど繰り返された、他愛の無いよしなしごと。今となってはそんなやり取りすら、涙が出るほど恋しい。 「おれがいねえと生きていけないって言わせたい」 もし本当に私がそう言ったら、きっと困った顔をするくせに。そんなんじゃ駄目だ、って、言うくせに。 「おれはお前を守りたい」 男の人に、そんなふうに言われたのは初めてだった。普通、守りたい、なんて思っても、そうそう口にはしないんじゃないだろうか。だから何だか私の方が気恥ずかしくて、その時は首筋に顔を寄せたまま、「そっか」としか答えられなかった。そっか。エースは私を守りたいんだ。―でも私もエースを守りたいよ。 この気持ちに名前が欲しい。恋じゃ足りない、愛だと何だか隙間がある。目の前のこの男の全てが欲しい。そして私の全てをあげたい。そんな強烈な気持ちに、どうしても名前が欲しかった。 ◆ 1人でいると思考の落下に歯止めがきかないのに、誰かといても楽になることはない。じゃあどうすればいいの。私はこの体をどこに置けばいいの。これからは何を思ってあの海を見つめればいいの。分からないことだらけでもう頭がパンクしてしまいそう。「助けて」って、言いたいけど言えない。だって皆同じ気持ちなんだもの。私だけが苦しいんじゃないんだもの。だけど苦しいのは本当なの。暗い海の底から上がれないの。 怖がりな私のことを気遣ってくれているのだろうか。エースは、幽霊になって現れることもない。夢の中で微笑むことはあっても、それは本当に輪郭のおぼろげな姿で、悲しみを増幅させるだけ。幽霊でもいい、今すぐここに来てほしい。エースになら何をされても怖くはないよと、何度も何度も言ったでしょう。だから。 ねえ、エース。 死んだ人は星になるって、本当なの?エースは今どこにいるの?まだ、お腹の傷は痛む?それとももう、どうってことないさ、って、笑える?ねえ、今、何を考えてる?恨んでる?悔やんでる?怒ってる?それとも、…何だろう、わからないや。痛みに耐えながら薄れていっただろう意識の中で、ほんの1秒でも、私のこと、思い出してくれた?欲張りだけど、そんなこと考えてしまうんだ。例え思い出してくれていたとして、それが何になるのかはわからないけれど。ねえ、エース。私の声、聞こえてる? あげられるものがもう何もない (わたしはまだここにいるのに) |