![]() 駅前には、客待ちのタクシーが退屈そうに並んでいた。 蛍はそのタクシーを何とはなしに見やりながら、ホームに電車が入ってくるのを待っている。大学生になってから滅多に地元に帰って来なくなった兄と会うのは久しぶりだ。こうして駅まで迎えに来るのは普段なら母親の役目なのだが、今日は何となく自分がその役を買って出た。中学最後の試合が終わり部活を引退した自分には、練習の無い夏休みは予想以上に退屈だった。 1番ホームに電車が参ります― 駅にアナウンスが流れると、ややあって電車が姿を見せた。盆ということもあり、改札を抜けてくる人々の中には大きなバッグを持っている人が目立つ。ぼんやりと人の流れを見ていると、その中に、明るい髪の若者が少し疲れた様子で姿を現した。蛍の心に僅かな緊張が生まれる。 「お、蛍。久しぶりだな」 改札機に切符を通して、明光はすぐ蛍に声をかけた。そのまま何かを探すように目線を左右に動かしたが、見慣れた車がそこにないことに気付くと、驚いたような顔をする。 「珍しいな、蛍が迎えに来てくれるなんて」 「・・・別に、ちょっと時間あったから」 久々に会う兄の顔は、少し会わない内にぐっと大人っぽくなっていた。大学に進学した今も毎日のようにバレーをしているという体つきも、蛍の知っているそれではない。子供の頃は飽きもせずに一緒にバレーの練習をしたものだが、もうその面影はどこにもなかった。 駅から実家までの道を、並んで歩く。明光がキャリーケースを引きずる音が、かろうじて沈黙を繋いでいた。男兄弟などそんなものなのかもしれないが、蛍には幼い頃の兄の印象が強すぎて、こうして黙りこくって歩くのが気まずくてならなかった。兄との間に、いつしか生まれてしまった違和感。始まりは多分あの日だ。散らかった部屋で額を床に擦りつけ、涙を流す姿を見てしまった日。あれ以来、蛍は兄に対しての思いをずっと持て余している。 「部活、もう引退したんだろ?」 不意に明光が蛍を見た。もうほとんど背丈の変わらない兄の眼差しは優しい。蛍が何も言わずに頷くと、「そっか、お疲れさん」とやはり優しい声が返ってきた。きっとこの聡明な兄は、自分が兄に対して抱いている言いようのない気まずさを、全て理解している。だからこうして、台本通りのような会話を、不器用な弟に振ってくれているのだろう。 「あとは受験勉強だな。お前、成績良いんだって?俺より良いって母さんが言ってたよ」 「別に、普通だけど」 「進路は決めたのか?」 ぐっと蛍は唾を飲んだ。 先日の三者面談で、初めて母に志望校を告げた。それは担任の口からで、母親は僅かに驚いたように自分を見た。 ― 正直、月島君ならもっと上を狙ってもいいと思うんですけどね、まあ本人の決めることなので。 担任はよそ行きの声で、どこか困ったようにそう話した。母親は「そうですか」と曖昧な返事をしながら、ちらちらと蛍を見ていた。驚きと喜びに少し口元を緩めながら。母親のその表情を直視することはどうしても出来なくて、蛍はずっと担任のネクタイの結び目を見ていた。 「・・・烏野、にする」 乾いた声で、蛍は、兄の出身校を口にした。スーツケースのキャスターの音が止まる。家から徒歩で通える距離にある烏野高校は、明光にとっては学力的にも相応しく、そして何より彼の熱中していたバレーボールの強豪校だった。しかし強豪と呼ばれたのもせいぜい明光達のいた時代までで、最近はめっきり良い話を聞かなくなっている。 蛍の学力なら、烏野よりももっとレベルの高い高校を狙えるのだろうし、蛍の体格なら、バレーの強豪校に進学してもそれなりに戦える筈だ。歩いて通えるというメリットはあるとはいえ、他にも徒歩や自転車で通える高校はある。それなのに、蛍は烏野に行くのだと言う。明光はぐっと胸の中が熱くなった。 「・・・そっか、・・・烏野かあ」 自分が立ち止まっている間に少し前に進んでいた弟を、追いかけるように明光は歩みを速めた。ガラガラと喧しく音を立てるキャスターが、鳴り響く蝉の鳴き声をかき消している。 明光は、蛍に言ってやりたい言葉がどっと溢れ出すのを感じた。幼い頃は兄ちゃん兄ちゃんと慕ってどこに行くにも付いて来たものだが、いつからか壁を作るようになった弟。明光には、兄として、幼い弟を傷つけてしまったという自覚がある。年の離れた弟にとって、自分は憧れられるべき存在だった。しかし高3の夏、あの熱気のこもった体育館で、コートを間に挟んで目が合った時、明光は恥ずかしさよりも何よりも、罪悪感を覚えた。レギュラーだと嘘をついていたことに対してではない。蛍から、バレーボールに対するひたむきさを奪ってしまったことに対してだ。 だから明光は嬉しかった。とても誇らしかった。自分より遥かに有能である弟の口から、自分の出身校の名前が出たことが、とてもとても嬉しかった。 「・・・烏野の制服、蛍、似合いそうだな」 「・・・そうかな」 汗を浮かべながら、口元を強ばらせている弟の横顔を、昔のように力いっぱい抱き締めてみたい。明光は、勢いよく蛍の肩に腕を回した。突然のことに足元がよろけ、蛍は不愉快そうに明光を見上げる。「やめてよ、暑苦しい」と言った割に、蛍は抵抗しなかった。 「まあまあ、いいじゃん。兄弟なんだからさ」 今はまだほんの少しだけ明光の方が背が高い。この些細な兄としての矜持も、次に会う時にはあっさり打ち砕かれているだろうか。弟はまだ成長期だ。帰ったらきっと部屋に篭って勉強でも始めるのであろう弟に、後でアイスでも買ってきてやろう。可愛い弟として扱ってやろう。蛍は嫌そうに目を眇めるかもしれないが、そんなのは瑣末なことだ。自分も着ていた黒とオレンジのユニフォームに袖を通す弟の姿を想像して、明光はやはり胸が熱くなった。 fin. |