![]() ライド・ザ・メリーゴラウンド バスルームからは、無機質なシャワーの音が聞こえている。 壁に沿わせて置かれているシングルベッドには、大柄の花模様のカバーがかかってある。おれはそのベッドにそっと手を置き、スプリングの具合を確かめた。特に意味はない。ただなんとなく、彼女が毎晩眠るベッドがどんなものなのか知っておきたかった。 初めて訪れたさんの部屋は、拍子抜けするくらい整然としていて、実際おれは正直に「何も無いっすね」と口にしてしまった。家具類は全て黒で統一されていて、唯一ベッドカバーだけが花柄ではあるものの、それさえも白黒だ。そのベッドカバーがなければ、誰もがここは男の部屋だと思うだろう。おれの想像していた彼女の部屋は、失礼だが、もっとごちゃごちゃしていて、可愛らしいグッズがあちこちに並べられている、呆れ返るほど女っぽい部屋だった。 ソファや座布団なんてものはないから、ラグの端っこに腰を下ろした。さて、おれはこれからどうすればいいんだろう。成り行きで、半ば強引ともいえる形で、ここまで来てしまったけれど。ふと携帯電話の画面を見ると、最終バスはもう出てしまっている時間だった。ここから自分の家までどうやって帰ればいいんだろう。というか、帰るのか?いや、帰らないとまずい。非常にまずい、けれども。 カチャリとドアが開く音がして、おれは跳ねるように顔を上げた。当然そこには風呂上りの彼女が立っていて、濡れた髪を器用にタオルでまとめているその姿は、こちらの肩の力を程よく抜いてくれるものだった。自然と笑みがこぼれて、今まで自分が緊張していたことに気付く。 彼女は座っているおれを見下ろすような形で、「出水くん、帰れないよね」とぽつりと言った。風呂上りということで色っぽい姿を期待していたのだが、タオルで髪をまとめて、よれた大きめのTシャツとハーフパンツを身につけている彼女は、こっちが情けなくなるくらい、おれを男として意識していないらしかった。 「ね、バス、なくなっちゃったよね。どうしようか」 「あー、えーっと・・・」 言い淀むおれを一瞥し、彼女は髪をまとめていたタオルを外した。濡れた黒髪が重力に従って、ゆっくりと彼女の肩口に落ちる。その毛先が濡らすグレーのTシャツには、何となく見覚えがあった。去年の夏、あの人が着ていたような、気がする。 『今何してるの?私、出水くんの家の近くにいるんだけど』 数時間前、突然のメールで呼び出されたのは、誰もいない夜の公園。彼女はその片隅にあるベンチにぽつんと座っていた。両手で500mlの缶ビールを握り締めて、ひとり静かに泣いていた。 「な、何してんすか、こんなとこで・・・」 メールを見て家を飛び出してきたので、おれの息は少し上がっていた。目の前に立ったおれに彼女はいったん顔を上げたが、すぐにまた俯いてしまった。その弾みで、ぽとりと、膝に涙が落っこちた。 「こんなとこで晩酌っすか・・・?危ないっすよ」 努めて冷静に聞こえるようにおれは言ったが、内心はとても焦っていた。彼女が泣いているところを見るのは初めてだったし、こんな真っ暗な公園にひとりでいるというだけで何だか気味が悪い。何かあったのは間違いないが、聞いていいものなのかも見当がつかない。要するに、4つ歳上のこの人は、到底おれの手には余る女の人なのだ。 暫くの間重い沈黙に耐えていたのだが、やはりどうしようもなくなって、おれはパーカーのポケットから携帯電話を取り出した。 「さん、何があったのか知らないですけど・・・ひとまず太刀川さんに連絡します?」 「それはダメ」 えっ、と思わず声が出た。彼女は顔を上げて、きっぱりと言った。 「太刀川はダメ。・・・わかるでしょ、それくらい」 そして両手で持っていた缶ビールをくいっと呷った。相当酔っ払っているのだろうかとさりげなく顔を寄せてみたら、確かに彼女からは強いアルコールのにおいがした。 「・・・また喧嘩したんすか?仲良いっすね」 半分安心、半分呆れてそう言った。さんと太刀川さんはよく喧嘩をするが、何だかんだでお似合いの恋人同士で、いずれ結婚なんかをしてもおかしくないように見える。だからきっと今夜もいつものような喧嘩をしたんだろうとおれは思ったのだが、彼女は首を横に振った。 「・・・そんなんじゃない。でも、太刀川には会いたくないの」 彼女がまとうアルコールのにおいは、手元の缶ビール1本分なんかでは足りない。ここに来るまでにもどこかで飲んでいたのだろうが、その相手は太刀川さんではないのだろうか。 「出水くん、誰にも言わないでよ」 「え、何をですか?」 「私がここに来るまでに何をしてたか」 何かを決意したように彼女は言った。空になったらしいビールの缶を投げるようにゴミ箱に捨てる。そして若干おぼつかない足取りで公園を出ようとするので、慌てておれも彼女を追いかけた。 そのまま、何も会話はしないまま、だけど決して彼女を見捨てて帰ることは許されないプレッシャーの中、おれ達はがらがらのバスに乗り込んで、彼女のマンションまでやって来た。 おれは胡座をかいて、姿見の前で髪を乾かす彼女を眺めていた。室内にはドライヤーの音しかしない。このまま、彼女は寝るんだろうか。じゃあおれはどうしたらいいんだろう。おれだって年頃の男なので、女の人の家に泊まるなんてことになったら、きっと眠れやしないだろう。彼女とあのベッドで過ごす妄想はちらつくのだが、さすがに太刀川さんの恋人に手を出すのはどうかと思うし、そもそも彼女が嫌がったら、おれは犯罪者になってしまう。 ふっとドライヤーの音が止まった。彼女は手櫛で髪を整える。今しかない、と思っておれは息を吸い込んだ。口の中はからからに渇いていた。 「・・・さん、おれ、このまま泊まっていく感じっすかね」 彼女の小さな顔がくるりとこちらを向いた。化粧をしていない顔は普段よりずいぶん幼い。 「・・・出水くんはさ、童貞なの?」 「は!?」 思いがけない言葉に、一気に顔が赤くなる。 「な、何すか急に!さんには関係ないじゃないっすか」 あたふたと言葉を返すおれを、彼女は表情を変えぬまま見ていた。まるでその動揺が事実を語っているとでもいうような眼差しに、バツが悪くなって、おれの言葉はだんだんと尻すぼみになっていく。全く、何なんだ。急に呼び出されて、家に連れ込まれて、最終バスを逃して、挙げ句の果てには非常に気恥ずかしい話題を振られている。こういうのを未成年略取っていうんじゃないのか。気まずさを通り越して、次第に腹が立ってきた。 「・・・おれ、明日も学校なんすよ。おれにも風呂ぐらい貸してください」 自棄になって立ち上がると、彼女の目線もそのまま上に移動した。 「出水くん」 「・・・何すか」 「私ね」 弱々しい声で切り出した彼女の目に、みるみる涙が溜まっていく。「えっ」と情けなくも戸惑うおれに気を遣ってくれることはなく、涙は頬を伝い落ちていった。もうそんなに酔っ払っているふうでもないのに、どうしてこんなに泣くんだろう。太刀川さんが去年着ていたTシャツをパジャマ代わりにして、すっぴんの顔をおれに晒して。女の人って何でこんなふうになるんだろう。全くもって理解できない。 「・・・私ね、出水くん。誰にも言わないでほしいんだけど、特に、太刀川には」 「・・・はい」 悲しげな声に引っ張られるようにして、おれは再びラグに腰を下ろした。おれ達の間には違和感を覚えるほどの距離がある。 「私、さっき、太刀川じゃない男の人と寝ちゃったの」 「は!?え!?ね、寝ちゃったって」 「・・・お酒が入ってて・・・まあ、強引ではあったけど、でも、別に無理やりとかじゃなくて」 どくどくと心臓が音を立て始める。寝ちゃったって、え、本当に、そういうこと?彼女は明るくてノリがよくて、姐御肌の美人で、いつも喧嘩はしているけど、何だかんだ太刀川さんに惚れてて、太刀川さんも多分それは同じで―そんな人が、そんなことを? 「・・・あ、あの、寝ちゃったって、さん」 「・・・」 「そ、そういうこと、っすよね?え、え?何で、そんな・・・え、浮気っすか?」 狼狽えるおれの方を、もう彼女は見ていなかった。どんどん溢れてくる涙を拭うのに必死になっているみたいだった。 「え、相手は・・・、まさかボーダーの人とか・・・」 その問いかけには彼女は大きく首を横に振った。少しだけほっとしてしまうのが情けない。しかし、まあ、何ということだろう。とてつもなく面倒な事実をおれは知ってしまったんじゃないだろうか。純情な男子高校生にはいささか刺激が強すぎる。目の前で泣いているのは自分の上司の恋人で、自分自身も彼女とはそんなに短い付き合いでもなくて。太刀川さんとそういう行為をするのは充分理解できるし、実際にベッドで乱れる彼女を妄想したことがないわけではない・・・し、太刀川さんの様子を見るに、二人の仲が実はそっちには淡白でした、というふうにも思えないし。それなのに、どうして。オトナの遊びってやつなんだろうか。 「・・・わ、わかりました。とりあえず、誰にも言いませんから、泣き止んでくれませんか」 刺激に頭がこんがらがって、おれの体の中は少し熱かった。ごまかすようにパーカーを脱いで下半身にかける。 「あの、よく知りませんけど、そういうことって、結構普通にあるんじゃないっすかね。バレなきゃ別に・・・」 「よくないよ。裏切っちゃったんだもん。その上、こんなふうに・・・」 「こんなふうに?」 「い、出水くんのこと連れ込んだなんて知られたら、普通に、フラれる」 じゃあ何でおれを呼び出したんだ、と、心の中ですかさず突っ込む。でも何となく、おれにメールを送ったときの気持ちは分かる気がした。見ての通りかなりの罪悪感を覚えている彼女は、自分の罪を誰かに話したかったのだろう。しかもその相手は、彼女を責めたり詰ったりするような冷静沈着な人ではなく、おれのように、ただ彼女に振り回されて、うろたえて、何の救いにもならない慰めの言葉を必死で繰り出すようなバカでなければいけなかった。 彼女は暫くの間ずっと泣いていた。おれはといえば何もできずに、正座して両膝で握り拳を作っていた。おれがこの件を誰にも話さなければ、彼女と太刀川さんは今まで通りでいられるんだろう。彼女が罪悪感にけしかけられて事実を告白してしまわなければ、の話だが。もし彼女がこのことを口にしてしまったら、太刀川さんは彼女の想像通りの行動をするだろうか。知らない男と寝た上に、おれを部屋に連れ込んだ。・・・このふたつの出来事においておれの存在はあまりにも軽い気はするが。 「・・・さん、まあ、気持ちは分かるっていうか・・・あの、共感はできませんけど理解はできるっていうか・・・。でもまあ、もう終わっちゃったことなんだし、泣いても仕方ないっていうか」 こくり、と彼女が頷く。 「あの、とにかくおれ、もう帰れないんで、今日泊まっていってもいいっすよね?」 「・・・ぜ、絶対に、ヘンなことしないでよ」 「しませんよ!」 想像以上に大きな声が出た。これ以上の面倒事は、おれだって御免だ。 「と、とにかく、風呂。風呂貸してください」 そう言ったおれに、彼女は涙声のまま、タオルやパジャマ(太刀川さんのお古らしい。それもまた面倒くさい)の場所を告げた。おれは短く礼を言って、「入ってこないで下さいよ」と前置きしてからバスルームに入った。本当にバカだと思うけど、体はどうしようもなく熱くなっていた。ここで何とかしておかなければ、もう身が持たない。 少し長めの風呂から上がると、彼女は狭いキッチンにいた。何をしているのかと覗いてみると、なんと彼女の手には缶チューハイがあった。慌ててそれを取り上げる。 「ま、まだ飲むんすか!?」 「だって、飲まなきゃやってられないでしょ」 「何言ってんすか!さん、おれにさっきの件黙っててほしいんですよね!?」 彼女がまた泣きそうな顔をする。おれは缶チューハイのプルタブを開けると、遠慮なく中身をシンクに流した。勿体無い!と叫ぶ彼女を無視して、空になった缶をぐしゃりと握り潰す。 「さん、今日から暫く禁酒です。でないと、おれ、もうあなたのことを普通の目で見れません」 酒に呑まれて恋人でもない男と寝て、そのことを後悔して、新たな男(とは思われていないが)を部屋に連れ込む。その事実が、どれだけ男子高校生を心身ともに振り回しているか、この人には分かってもらわなければ。 「おれ、床で寝ますから!何か毛布とか貸してください。ありますよね!?」 おれの気迫に押されるように、彼女がクロゼットから冬物の毛布を引っ張り出してきた。それを多少乱暴にひったっくると、モノトーンで調えられた部屋の真ん中に横になった。この部屋は本当にシンプルで、知られたくないことを上手に隠せる場所もない。 「・・・出水くん、ごめんね。おやすみ」 最後の声はもう泣いてはいなかった。間もなくして電気が消され、彼女がベッドに入る気配がする。そのうち寝息なんかが聞こえてくるんだろうか。おれはきっと一睡もできないまま、眠っている彼女を起こさないようにしながら、始発のバスで帰るんだろう。なんて長い夜なんだろう。毛布にくるまった体は、一向に冷めてくれない。 |