指先のプラリネ


私は彼のことを何も知らない。
欧風料理とベルギービールを多種取り揃えているこのダイニング・バーで、1ヶ月に数回、隣の席に座る彼。名前は唐沢さんという。おそらく年齢は私より3つか4つ上。いつもスーツ姿だけれど、堅苦しい雰囲気は無い。「ひとりで飲むのが好きで」と言う割には、私の話を上手に聞いてくれて、含蓄のある話を聞かせてくれることもある。スパイシーな香りのする煙草をくわえる端正な横顔には、余裕があって、沈黙だって困らない。私は、彼のことを何も知らない。だけど、とても好感を持っている。

いつもより少し遅くに、唐沢さんはダークブラウンのスーツ姿で現れた。
「オルヴァルを」
「かしこまりました」
この店の売りは樽生で飲めるヒューガルデンだけれど、彼はいつも一杯目にオルヴァルを注文する。二杯目以降はメニューを見ながら、飲んだことのないものを選ぶ。ここには本当にたくさんの種類のベルギービールが並んでいるから、全種類を制覇するのは難しい。男の人は決まりきった定番を好むことが多いけれど、彼にはあまりそういうきらいがなかった。
「こんばんは。さん、ちょっと久しぶりだね」
彼は隣のスツールに腰を下ろして、ジャケットを脱ぎながら言った。
「こんばんは。お忙しいみたいですね」
「いや、そうでもないよ。何か食べ物は?」
「あ、もう頼みました。そば粉のガレット」
彼は小さく笑って、「じゃあおれは自家製ソーセージの盛り合わせ」とマスターに声をかけた。少し緩められたネクタイの結び目が、彼の一日の疲労を表しているように感じる。どんな仕事をしているのかは知らない。聞いたら答えてくれるのかもしれないけれど、聞いてみたことはなかった。彼と交わす会話は、プライベートに踏み込まない、日常の些末なことばかり。好きな映画や小説の話、スポーツの話、海外旅行の話。私たちの嗜好は基本的によく似ていた。
さん、今日は少し雰囲気が違わない?」
優しげなのに何を考えているのか分かりづらい瞳が、まっすぐに私を見ている。確かに私は今日、普段よりいくらか男性受けを意識した格好をしていた。普段は一つに結わえている髪を下ろして、毛先を軽く巻いている。水色のシフォンブラウスに、濃いグレーのタイトスカート。7cmのピンヒール。今日は久しぶりに彼に会えるかもしれないと思ったからだった。その僅かな期待をすぐに拾い上げられて、嬉しい半面、作為的な自分が少し恥ずかしくもなる。
「・・・髪を下ろしているからですかね」
「ああ、そうかもしれないな。女性は少しのことでもガラッと変わるからいいね」
ちょうど、焼きたてのガレットとソーセージの盛り合わせが出された。マスターがちらりと私に目配せをする。口に出したことはないというのに、どうやらマスターは私の感情に気がついているらしい。
さん、ドストエフスキーの『白夜』って知っている?」
唐突に彼が言った。オルヴァルのグラスの中身はいつの間にか半分ほどに減っている。
「『白夜』・・・ごめんなさい、読んでないです」
「簡単に言えば冴えない男の恋の話なんだけど、そこに出てくる女性が結構酷いんだ。でも―」
「でも?」
「こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、ある意味では女性らしいなと思って」
あらすじさえ知らない私が、怒るも何もない。だけど、彼がそう語る小説ならば、今すぐにでも読みたいと思ってしまう。彼の言う、酷い女性、女性らしさ。それは一体どんなものなのか、興味を持たないほうが難しい。
焼きたてのガレットは遅めの夕食にはちょうどいい量で、私は次にデリリウム・トレメンスと、ベルギーチョコレートの盛り合わせを頼んだ。それを見ていた彼が息だけで笑う。
「好きだよね。チョコレート」
「はい、ここに来たらつい・・・唐沢さんは甘党ではないですもんね?」
「まあ、そうだね。でも確かにここのは美味い」
ベルギービールとチョコレートの取り合わせは絶妙だ。その時に飲んでいるものに合わせてマスターが選んでくれるチョコレートに、外れは無かった。
彼はオルヴァルを飲み干して、煙草に火を点けた。細い紫煙がスパイシーな香りと共に立ち上る。煙草を挟む人差し指と中指は男性らしいシルエットで、ソフトな印象の顔立ちとのミスマッチに色気を感じる。ついでに、ちらりと、その左手の薬指に目を向けた。私は彼のことを何も知らない。だから、彼が既婚者なのかどうかさえも知らない。ただ今日も指輪の類は見当たらず、密かに胸を撫で下ろした。年齢的には、結婚して子供がいてもおかしくないだろう。そもそも指輪をしていないからといって独身だとは限らないし、決まった女性がいないという証拠でもない。たった一言、聞いてみればいいのだろう。だけどどうしたってそれが出来ない。

マスターおすすめのチョコレートとお酒を楽しんで、日付が変わる少し前に、私たちは店を後にした。終電はまだ走っていたけれど、お酒が入っていることもあって面倒になった私は、大通りに出てタクシーを捕まえることにした。
「唐沢さん、今日はありがとうございました」
タクシーが捕まるまで一緒に待つ、と言ってくれた彼に頭を下げた。店を出る前、私がお手洗いに行っている間に、彼が私の分も会計を済ませてくれていたのだ。
「こちらこそ。楽しかったよ」
「はい、私も・・・あ、ドストエフスキーの『白夜』、読んでみます」
「はは、さんも忙しいだろうから、無理しなくていいよ」
彼はそう言ってすっと片腕を上げた。私たちの前にタクシーが一台停まり、後部座席のドアが開く。
「じゃあ、また」
「はい、また今度。・・・おやすみなさい」
運転手にマンションの住所を告げ、後部座席の固いシートに背を預けた。彼はどうやって帰るんだろう。どこに住んでいるんだろう。そんなことさえも聞けずに、また今度、とだけ約束をした。今度って、いつだろう。彼と知り合って半年くらい。私は彼のことを、何も聞けない。



それから暫くの間、いつもの店に行けない日々が続いた。仕事が忙しかったことに加えて、三門市に近界民の侵攻があったのだ。私自身は直接被害を受けたわけではないし、数年前のものより全体的な被害はましだったと聞いている。それでも、一般民である私にとっては恐ろしい出来事だった。ボーダーがいるとはいえ、やはり三門市は危険と隣り合わせなのだと改めて思う機会でもあった。



仕事で取り掛かっていたプロジェクトが一旦落ち着き、残業続きの日々から解放された頃、私は久しぶりに樽生のヒューガルデンを味わうことができた。
「マスター、この間の近界民の件、大丈夫だった?」
店のカウンター席には私しか座っていなかった。奥の席では若いカップルが小声で楽しそうに語り合っている。
「ええ、この辺は何もありませんでしたよ」
「よかった。私も普通に仕事してた」
キッシュを咀嚼しながら答える。焼きたてのキッシュは熱さも食感も最高だ。
この店を訪ねるのは1ヶ月ぶりだった。要するに、唐沢さんとも1ヶ月会っていない。元々、会う約束をしているわけではないし、ここに来てみたからといって毎回会えるわけではもちろん無い。今夜も、会えればいいなと思ってはいるけれど、来なくても落胆するほどのことはない。それでも静かなクラシックの流れる店内で、ずっと気配を気にしていた。
さんは、ビール以外には何を飲まれるんです?」
寡黙なマスターが珍しく声をかけてきた。私はヒューガルデンのおかわりを注文し、少し考えて答える。
「その場に合わせて何でも飲むけど、ワインが好きかな。どうしてそんなこと聞くの?」
「いえ、唐沢さんは焼酎がお好きだと仰っていたので、さんはどうなのかと」
「・・・唐沢さん、最近来てたの?」
私の問いかけに、マスターは「つい数日前に」と言って微笑んだ。お客の個人情報にあたるんじゃないか、という堅苦しい考えは置いておいて、内心がっかりした。数日前に彼がここに来たというのなら、今夜はきっと来ないだろう。
私と唐沢さんは連絡先の交換さえしていない。だから会う約束もできない。この店で偶然会うことだけが、私が彼と繋がる唯一の方法だから、どちらかに何かが起こってここに来られなくなったら、もうきっと二度と会えない。それはそれでいいのかもしれない、と、思わなくはない。現に、会えるか会えないかの緊張感を年甲斐もなく楽しんでしまっているのだし。でも。
「4年前もそうだったけど・・・近界民が来ると、なんか、人生のこと考えちゃうね」
ここに住み続けることを選択したのは自分自身だ。4年前の大規模侵攻を機に、三門市から引っ越していった人々は少なくない。いくらボーダーという組織が存在しているとはいえ、小さな子供のいる家庭などは不安が大きいものだろう。
「そうですね・・・」
マスターは意味ありげに私を見て、優しい声色で言った。
「でもまあ、人生なんて、そもそも何があるか分からないものですけど」
今夜、彼はここに来ない。二杯目のヒューガルデンを飲み干して、ものすごく彼に会いたいと思った。
その日の帰り、24時まで開いている駅前の大型書店に寄った。話題の新刊やビジネス書が並んでいる棚を抜けて、人気(ひとけ)の少ない海外文学の棚の前に立つ。彼が以前話してくれたドストエフスキーの小説を、まだ読んでいなかったのだ。彼が感じたものを、私も同じように感じられるだろうか。感じられれば嬉しい。感じられなければ、それはまたそれで。きっと彼は、ビールを片手に、私の感想を聞いてくれることだろう。



次に彼と会ったのは、私がドストエフスキーを読了した翌日だった。
しかし場所はいつもの店ではなかった。
「―あれ」
仕事終わり、入社したばかりの後輩を連れて訪ねた小料理屋に、男の人が二人、向かい合って食事をしている。似たような組み合わせのお客は他にもいたのに、私は暖簾をくぐってすぐ彼らに目が留まった。
店員に促された席に後輩と座った。後輩が「さんってビール飲めます?」と気を使ってくれる。私は頷きながら、鼓動が速くなっていくのを感じていた。入口の方に背を向けて座っている、ダークブラウンのスーツのその人は、私たちが入ってきたことにさえ気付いていないようだ。でも、あの後ろ姿は、絶対に、彼だ。私の席からは、彼の向かいに座っている男の人しか見えない。黒髪で真面目そうで、雰囲気は彼とは少し違うように見えるけれど、時折楽しそうに笑っている。
「生ビール2つ、お待たせしました」
若いアルバイト店員が私たちの卓にジョッキを運んでくる。目の前の後輩は、無遠慮にネクタイを緩めながらジョッキを手に取った。この後輩は社会人としてのマナーに欠けるところは多々あるものの、物怖じしない分、付き合いやすかった。
さん、飲まないんですか?」
「・・・先に飲んでて」
後輩は、急に立ち上がった私を驚いたように見上げた。
「お世話になってる人がいるみたいなの。ちょっと、挨拶してくるから」
今この機会を逃してしまったら、私は二度と彼に会えないかもしれない。嫌な予感というような代物ではない。ただ、人生の摂理。当たり前のように繰り返されてきた偶然が、いつまで続くかなんて分からない。明日またこの街に、近界民が攻めてくるかもしれない。あの店が突然閉まってしまうかもしれない。彼が突然事故に遭って、記憶喪失になってしまって、私と過ごしたあの店でのひと時を忘れてしまうかもしれない。そしたらきっと、彼のことを何も知らずにいたことを、私は後悔するだろう。
失礼は重々承知で彼らの席に近付いた。先に気付いて不思議そうな顔をしたのは、真面目そうな黒髪の男性だった。
「・・・あの、すみません」
おもむろに彼が振り返った。すると彼は、私が今まで見たことのなかった表情を浮かべた。ああ、驚いたときはこんな顔をするんだ、と、妙に冷静な思考が働いて、少し笑ってしまう。
「お食事中すみません。・・・唐沢さん、こんばんは」
「・・・こんばんは」
1ヶ月前に会ったときより、少し髪が伸びている。今日は勿論オルヴァルではなく生ビールを飲んでいた。
「すみません、あの、失礼だとは思ったんですけど、挨拶だけでもと思って」
彼が呆気にとられたような顔をしたままなので、私は取り繕うように慌てて言葉を繋げた。やってしまっただろうか。ここで声をかけてはいけなかったのだろうか。私は彼のことを知らないから、最適なタイミングや、あの店以外での最適な言葉選びがわからない。
「ごめんなさい、最近あの店でも会えなかったから、つい」
「いや、おれの方こそ、びっくりして。何だか随分久しぶりな気がするけど、まさかこんなところで会うなんてね」
彼はそう言って、ちらりと連れの男性に目を向けた。ジョッキを呷っていたその人は、視線を私たちに交互に向けてから、「ああ」と何かを心得たような顔をしてみせた。
「ちょっとお手洗いに」
連れの男性はそう言って立ち上がった。唐沢さんとはまたタイプが違うけれど、凛とした立ち姿が素敵な人だ。
さんは、一人?」
煙草に火を点けながら彼は言った。私は首を横に振り、
「いえ、後輩と」
と、自分たちの席の方を軽く振り返る。後輩はいつの間にかネクタイを外して、ビールとお通しの枝豆をつまんでいた。彼の遠慮のなさが、こういう時は実に助かる。
「へえ・・・若そうな子だね」
「あ、入社したばかりで。唐沢さんもお仕事の方と?」
「そう。まさかさんとここで会うなんて思ってなかったから」
顔の向きを変えて、煙が細く吐き出される。表情は少し渋い。やっぱり、ここで会ってはいけなかったのだろうか。私たちは何も知らずに過ごしてきた。最寄駅や、生活範囲さえもろくに知らずに。だからこそ、ちょうど楽しく過ごせていただけなのだろうか。
「・・・こないだの近界民侵攻、さんは大丈夫だった?」
気まずくて席に戻ろうとした私を、彼は意外な話題で引き止めた。困ったように眉尻を下げている。
「あ、はい、全然。何もなかったです」
「それはよかった」
本当にほっとしたような顔をして、彼はまた煙を吐き出した。
「今度またあの店で飲もう」
スチールの安っぽい灰皿に、彼が煙草を押し付ける。まだそんなに短くなっていないのに。
「唐沢さん」
連れの男性が戻ってきてしまう前に、言わなければいけないと思った。ここで近界民侵攻の話題が出たのは、チャンスだ。今夜みたいな偶然はもう二度とないかもしれない。
「今度って、いつですか」
店内のざわめきの中で、彼は目を見開いた。
何も知らないままでいるのは、楽しいこともある。この歳になると、お互いに知らないままの方がいいことだって多い。もしかしたら彼は結婚しているのかもしれない。子供だっているかもしれない。私のことも単なる常連仲間だとしか思っていないのかもしれない。知ったらもう戻れなくなるかもしれない。それでも、一回きりでもいいから、ほどけない約束をしてみたい。
「唐沢さんが言われていた『白夜』も読んだんです、私」
「そっか。嬉しいな」
連れの男性がトイレから戻ってくるのが見えた。
「じゃあ、明日の夜。おれはあの店に行くよ」
まるで伝言板みたいな、一方的なメッセージ。私は頷いた。明日、偶然また会えることを期待して。
知りたいことも、知りたくないこともある。きっと本当に聞きたいことは、明日も聞けないままで終わる。それなら明日は、私が伝言板にメッセージを残そう。私のヒューガルデンのグラスと、彼のオルヴァルのグラスの間に、チョコレートのお皿がある。間接照明の下で私は『白夜』の感想を話す。準備された偶然を心の底から味わって、私は本当の意味で、彼を好きになるかもしれない。


fin.