![]() 天国の味がする 駆け付け一杯の生ビールを飲み干して、その後も勧められるがままビールやら焼酎やらを流し込んだは、隣に座る東さんにふらつきながら何度ももたれかかっては上機嫌な笑い声を上げていた。その度に、正面の東さんがちらりと俺の方を見ては苦笑する。俺は愛想笑いもそこそこに、目が合う度に酒を呷った。 どこにでもあるチェーンの居酒屋で不定期に行われるこの飲み会に、が参加するのは久しぶりだった。今夜の主催者は東さんだということで、早めに仕事を切り上げてやって来たらしい。師弟関係でも何でもないくせに、は東さんを実の兄のように慕っている。まあ、東さんの包容力を考えれば分からなくもない。こうして腕に寄りかかられても表情一つ変えない落ち着きぶりは、のようなバカな女には何よりありがたいものなのだろう。 「私、ずうっと東さんに聞きたかったことがあるんですよお」 何杯目か分からない水割りのグラスを揺らしながら、が甘えた声で言う。斜め前にいる俺のことは視界に入っていないのだろう、その目は酔っ払いらしく、開いているのかいないのか分からないくらいとろんとしていた。 「聞きたいんです、東さん、聞いてもいいですか?」 「ああ、何だ?」 「あのー、東さんって、性欲あるんですか?」 思わず酒を噴き出しそうになった。ただ、それぞれが隣の者同士と自由に盛り上がっている時間帯だったから、幸いにもその発言をきちんと聞き取った人は少なかったようだ。現に、の正面にいる諏訪さんは他の人と別の話で盛り上がっていて、の発言はおろかその様子さえ気に留めていない。 「はは、たちの悪い酔っ払いだな」 「ごまかさないで下さいよー!私は至って冷静です」 冷静な奴がこんな品のない発言をしている方がどうかしているが。俺は黙ったまま、遠慮の塊だった最後の揚げ出し豆腐を口に運んだ。すると急にが「あ、それ私が食べたかったやつ」と低い声で言う。しかしさほど関心は無いらしく、俺の反応を待たずにまた東さんにもたれかかった。 「東さんって、モテるはずなのに、全然そういう話聞かないから」 「それをモテないって言うんじゃないのか?」 「あ、わかった!東さんは超絶秘密主義の人なんだ!だから私知らないんだあ」 何を得心したのか知らないが、はなぞなぞの答えがひらめいた子供のように両手を合わせて、ひとりで満足気な顔をしている。馬鹿馬鹿しくてこれ以上見ていられない、と思うのに、 馬鹿馬鹿しいが故に目が離せない。溜息と同時にグラスをテーブルに置く。 秘密主義者なのだろうと言われた東さんは、肯定も否定もせずに、ただ穏やかないつもの笑顔での相手を続けていた。どうやったらこんなに穏やかでいられるのだろう。もっとも、これくらい穏やかでいなければ、酔っ払ったの隣になど5分と座っていられないだろうが。そう感心しながら、次の酒を注文しようと店員に手を挙げかけたところで、東さんに「太刀川」と呼ばれた。 「はい?」 「お前、そろそろ帰った方がいいんじゃないか?連れて」 そう言って東さんは目線だけをに向けた。そのは、水割りだと騙されて、ただの水を美味そうに飲んでいる。 「あー・・・今一番めんどくさい感じですけどね・・」 「そう言ってやるなよ。がここまで飲むのは、お前がいる時だけだ」 馬鹿でどうしようもない女なのは確かだが、それは確かに東さんの言う通りかもしれなかった。元々かなり酒は飲める方だが、外に飲みに行ってが誰かに迷惑をかけたという話は聞かない。酔い潰れたから迎えに来いというような連絡が来たこともない。だから、薄らと目元を赤く染めながら、今目の前で酒に呑まれているこの女を、馬鹿だとは思いつつもここで見捨てようなんて考えは浮かばなかった。 「・・・じゃ、東さんにこれ以上迷惑かけられないし、帰ります」 そう言って俺は財布から二人分の参加費を出し、東さんに手渡した。その隣では、水(本人は水割りだと思っているが)を飲みながら、きょとんとした顔をしている。 「太刀川、先に帰るの」 「お前も帰るんだよ、酔っ払い」 ブルゾンを羽織りマフラーを巻きながら、の身の回りを確認した。ハンガーに掛かった白いコート、ショルダーバッグ、テーブルに置かれた携帯。未だに動こうとしないの代わりに携帯をバッグにしまってやり、コートを手に取った。ふと俺の動きに気付いた諏訪さんが、「何だよお前ら帰るのか?このバカップル」とヤジを飛ばす。この人もなかなかに酔っ払っているらしい。 「諏訪さんもそろそろ帰らないと美人のカノジョが泣くんじゃないですか」 言ってみて、俺も結構酔ってるな、と思う。普段なら言わないようなことを、からかうような口調で口走っている。現に諏訪さんは「うるせえよ!お前はさっさと帰れ!」と叫んで煙草の空き箱を俺に投げてきた。諏訪さんは2週間ほど前に、大して美人でもない彼女に振られたばかりなのだ。 「じゃ、お先っす」 「ああ、気をつけてな」 釈然としない表情のまま立ち上がったは、それでも素直に白いコートを受け取り、袖を通した。冷やかすような声が後ろで聞こえていたので、の手を引いてやるのも気恥ずかしく、その白い背中を押すようにしながら、居酒屋の自動ドアを抜けた。 店から出て、すぐにタクシーに乗り込んだ。俺の家までなら歩いて数分だが、の家まではもう少しかかる。その距離をこの酔っ払いと歩くのは単純に面倒だった。 タクシーの後部座席で、はうつらうつらと舟を漕いでいた。運転手が気を利かせてラジオのボリュームを落とす。東さんといい、この運転手といい、は寛容な人に恵まれていると思う。元々、人に愛されることに慣れているのだろう。気の強い美人、と言われてはいるが、素直で甘え上手なところもあり、こうして酒が入ったときなんかには特に、野郎から好意を持たれることも少なくないらしい。らしい、というのは、俺と出会う以前の話だからだ。そう考えると、俺がいない所では酔っぱらうほど酒を飲まなくなったという事実も、あざといとは思いつつ、愛しくも思えてきてしまう。 フロントガラスの右側に見慣れたマンションが見え、俺はそこで運転手に声をかけた。半分夢の中にいるを引きずり出すようにして車から降ろす。俺が持ったままだったショルダーバッグからキーケースを取り出し、オートロックを解除する。エレベーターで3階まで上がり、部屋のドアを開けても、は足取りをふらつかせながら、何も喋らない。 「おい、着いたぞ」 いったん廊下に座らせて、ショートブーツを脱がせる。ただ眠いだけなのか気分が悪いのかよく分からないので、俺もその場にしゃがんで、俯いているの顔を覗き込んだ。すると、ぱちりと開いた目が俺を見た。 「太刀川」 「・・・何だよ」 まさか目を開けるとは思っていなかったので少し驚きながらも返事をする。しかしはなにも喋り始めない。これだから酔っぱらいは面倒だ。溜息をこらえて俺も靴を脱ごうと立ち上がる。すると、ぐいっと下から手を引かれてバランスを崩し、あやうくの上に倒れこみそうになったのを、逆の手を壁につくことで何とか耐えた。 「バカ、危ねえな」 そう言った俺を見上げているは、頬を赤くしたままにっこりと笑っていた。その表情に、不覚にもぐっときてしまう。酔っぱらっている時のはとても面倒くさいのに、何でこうも煽情的に見えてしまうのだろう。やはりこれは俺のいない所で酒を飲まれては困るな、と密かに思う。 「やっと2人になれたね」 少し呂律の怪しい口ぶりなのが、また何ともいえない。 「・・・酔っぱらいは誘い方がストレートだな」 まんまとペースに乗せられてやるものか。余裕のあるフリをしながら、俺だって酒が入っているのだ、自制心なんてあっという間に吹き飛んでしまうだろう。は一瞬きょとんとして、それでもグロスの剥げた唇を軽く突き出して言う。 「誘ってるんだから、意地悪しないでよ」 「・・・せめてベッドまで待て」 「嫌だ。ここがいい」 さすがに玄関先で事に及んだことは今まで一度もない。でもそう言われてしまったのならば、お言葉に甘えて、といったところ。俺は再びしゃがんで、アルコールの匂いのする唇を塞いだ。一瞬の苦みが広がる。 「・・・お前、東さんに、『性欲がないのか』って聞いてたな」 「うーん?そうだっけ」 冷たい床に押し倒しても嫌な顔ひとつしない。これは本当にここで最後までやってしまうことになりそうだ。興奮がせり上がってくる中で、冷静な部分が、ここでは避妊具が無いなと考えている。高校生の時分なら、何かのおまじないのように財布に1つ忍ばせていたものだが、もうそんな歳でもない。 「俺の目の前で、東さんとはいえ、他の奴によくあんなこと言えるよな」 「・・・嫉妬?かわいいね太刀川」 揶揄されたことが気恥ずかしく、俺はそのままの上に跨った。は怯えるでも戸惑うでもなく、純粋に、これから先を求める濡れた瞳をしていた。すぐ後ろには玄関のドアがあるので、大きな音を立てたり声を上げたりしたら、外の廊下に漏れてしまう。そんなスリルさえも興奮剤に変えてしまうアルコールとは恐ろしい。念のため後ろ手でカギをかけてから、のスキニーパンツのボタンを外した。冬なのに熱い内腿が手のひらに吸い付く。一度火が点いたら止められない。普段よりいくらか力の弱いが、首に手を回してくる。どうかこのバカな酔っぱらいが、最中に眠りに落ちてしまいませんように。 fin. |