私を泣かせる為にある



きっといつかはこうなるのだろうと思っていた。だから、いつもは日暮れの前に私をコルボ山から帰らせるエースが、今夜そうしなかったことを、私は驚くほどすんなりと受けいれることが出来た。

「お前が他の奴ともこういう事するんだって考えると、すげェ、嫌な気分になる」

そこには酷く繊細な、17歳の少年の横顔があった。さっきまでは雄々しい獰猛な眼で私を見下ろしていたくせに、短い情事が終わってしまえば、もうすっかりいつものエースだった。

「どうして、嫌な気分になるの?」

私の問いかけに、エースは「わかんねェ」と不機嫌そうに呟いた。中途半端に脱がされた水色のワンピースは、土と汗でどろどろだった。最初はポニーテールにしてあった髪もエースの手によって解かれ、どこにやってしまったのか、縛ってあったリボンも見当たらない。でもそれすら嫌ではなかった。エースと私が、今日この日にこうなることは、もうずっと前から分かっていたから。

男と女という関係はもっと崇高で、手の届かないところにあるものかと思っていたけれど、いざ手を伸ばしてみればそれはとても簡単に自分達のいるところまで落ちてきた。これで私達は男と女という関係の仲間入りを果たしたわけだ。だけど、それがエースにとって、一体どれほどの意味や価値を持つのだろう。

、と声を掛けられ顔を寄せると、ふっと掠めるだけのキスをされた。裸になって体を重ねたのは今日が初めてだけれど、この小さなキスは今までにも何度もあった。エースはこのキスの意味を知らないようだった。ほとんど本能で生きているような人だから、「したいからする」というだけのものなのだろう。したいからするというだけのキスで、私がいつもどんなに胸を突かれていたかなんてこと、きっと想像さえもしない。

「他の奴とはこういう事、すんなよ」
「・・・しないわ」

私はほとんど誓うつもりで答えた。だけどエースは最初から本気じゃなかったみたいに、私の誓いを鼻で笑った。

エースは明日、海に出る。17歳になったら海に出るというのは、子供の頃に死んだ兄弟との約束らしい。私と出会う前からずっと憧れていたという船出の日を、今更どうして私が嫌がったり寂しがったりできるだろう。その前夜にこうして私の処女を差し出すことを、拒む理由なんてあるわけがなかったのだ。

「お前はきれいだから、どうせすぐ嫁にいっちまうんだろ」

行かないよ。そう答えることは出来たけれど、エースがそんな答えを求めているようには見えなかったからやめた。これは私への牽制でも名残惜しさを伝えるのでも何でもない。ただの独り言。あるいは、決別の言葉。エースの横顔は、上を向いている。

エースの頭の中に、私が知らない男と寝ているシーンが描かれているのかと思うと、今すぐそのキャンパスを塗り潰してやりたくなった。そんなつまらない想像は海底に投げ捨ててしまえばいい。私は一生エース以外の男を知らないまま生きていくのだと、見えない鎖で虚像の私を縛り付けておいてくれればいい。

「・・・私もお嫁に行くかもしれないけれど、エースはもっと遠いところに行くんじゃない」

星空を見上げていたエースが私の方を見た。そして屈託無く、歯を覗かせて笑った。私の科白が厭味であるなんてちっとも気付かずに、明日の船出をただ楽しみにしている1人の少年の笑顔。

「おれが海賊になったらさ」

自然な形で肩を抱かれ、エースの肩に頭を預けた。どんな残酷なことを言われるのかと、瞑目し言葉を待つ。だけど、なかなかエースは口を開かない。不思議に思い眼を開いてみて、気付く。エースは真剣な眼差しを、どこか遠くに投げていた。そして私の肩を抱く無骨な手は、本当に微かにだけれど、震えていた。

「海賊になったら、お前のこと、・・・攫いにきていいか」

月明かりの下、コルボ山の木々が風に吹かれて一斉に音を立てた。

本当は、今すぐ攫ってほしいの。手を繋いだまま小船に乗って、ひっそりとここを二人で出て行きたいの。だって私は生まれて初めて恋をした。本当は、何度も何度も好きだと言いたい。キスする度に微笑みたい。だけど、私が初めて恋した人は、恋を知らない人だから。私を独占したいと言うくせに、それを恋だと思ってくれない人だから。

「・・・だめ。旦那さんが海賊なんて、お断り」

そう言うと、エースはあっけらかんと、「そりゃそうだな」と言って笑った。抱かれた肩はそのままに。体と言葉の不一致を、こんなにも手懐けている私達。遠くで海の音がする。あの海に抱かれてしまったら、エースはもうきっとここには帰ってこないだろう。それが分かっていて、でもどうにもならない夜が、少しずつ明けてゆく気配がする。