いつだか酒の注がれたグラスの向こう側で、「不器用なんだよな」と頼りなげに笑った表情が蘇った。いつもあっけらかんと底抜けに明るくて、悩みごとなんて何一つ無いという顔をしている男だから、そんな風に睫毛を伏せるのを見て驚いたのを覚えている。

どうして今の状況であの時のエースの姿が浮かんでくるのか、自分でもよく分からなかった。これではまるで、不器用だと自負する彼の肩を持つようだ。私は数回瞬きを繰り返し、まっすぐに彼を見つめ返した。彼の黒い瞳の奥に、赤い陽炎が揺れている。

「離して」

震える心臓に嘘をついて絞り出した声は、この狭いベッドで予想以上に冷たく響き、私に覆い被さるエースの顔を露骨に曇らせた。押さえつけられていた肩口がふっと軽くなる。だけどその大きな両手が私の肩から離れることはなかった。陽炎の目の中で、理性と本能、二つの色がめらめらと燃え上がっているのが分かる。先に消される炎はどちら、水をかけるのはいつ、誰が。

「こんな事をして傷つくのは、私じゃなくてあなたよ」

どんなに混乱していても、意識さえすれば案外大人びた声を出せるものだ。伊達に長年海賊船で生きてきたわけではない。私の紡ぐ言葉に対し従順に表情を変えるエースを見上げていたら、何だかこのベッドで体を組み敷く権利を持つのは私だという気さえしてくるのだった。もっとも、同意なしに彼の体を私が制するなど、どの観点から見てもありえないことなのだけれど。

丸い窓枠の向こうで陽は沈みかけていた。私の位置からは空を彩るなめらかなグラデーションが見えているけれど、エースは垂れ下がる自身の黒髪で光を遮り、その目に私だけを映している。今この瞬間、私しか見ない、私のことにしか興味のない男がここにいる。

「…きれいな顔だな」

黙りきりだったエースが言った。まるでもうずっと水を飲んでいなかったみたいに、かさかさに乾いた声だった。

「髪も肌も、とても海賊なんかに見えねェ」

肩口に置かれていた手が、示された道筋を辿るようにゆっくりと鎖骨を撫でる。そのまま指先は私のキャミソールの肩紐をくぐった。きっと、こんな細い紐ならひきちぎってしまいたいなどと思うのだろう。エース程の男なら、欲望のままに服を引き裂いて女一人めちゃくちゃにするくらい造作ないことだ。ただ、私をそんな風に乱暴には扱わないという確信はあった。だってそれなら、こうしてベッドに押し倒されて一瞬のうちに首元に噛み付かれているに違いない。

「…躊躇う気持ちがあるならやめたほうがいいわ。今ならまだ引き返せる」

腹を空かせた肉食獣をなだめすかすのは大変だ。引き返せる、なんて生ぬるい言葉を使って、私はエースを一体どこへ引き返させようとしているのか。意地が悪い、と思う。引き返したところでまたきっと同じことになると分かっているのに。それどころか何事も無かったように振舞う私を見て、きっとエースはまた傷つくだろうに。

一体どれ位の時間が経ったのだろう。空の移ろいを見て何となく推測はできるものの、こうして体の自由を奪われてからの時間は酷く長く感じる。キャミソールに触れたきり動かない指先は今何を思っているのだろう。

「今ここでやめたら元通り仲間に戻れるって思うのか?」

小さく頷くとエースは鼻白んだように冷たい目を見せた。汗ばんで額に張り付いた前髪を、武骨な手が荒っぽくよける。ふと、エースはいつもどんな風に女を抱くのだろうと気になった。弟のように扱ってきた10も歳の離れたこの男が、ふつうの女を前にした時はどんな表情をするのだろうかと。

「おれはを仲間だなんて思ったこと、ただの一度も無ェ」
「…それは残念ね。私はあなたのこと、仲間の一人だと思っていたのに」

私の言葉に衝撃を受けたとでもいうようにエースは目を見開いた。私も自分の言葉に少なからず動揺していた。さっきまでは猛獣をなだめる気でいたのに、どうしてこんな、自ら火を焚きつけるような言葉を選んでしまったのだろう。想像以上に戸惑っているせいなのか、それとも、海賊船で女として生きてきたプライドが、そうさせたのか。

「…じゃあ今ここでお前を犯したら、仲間なんかじゃ無いって言ってくれるか?」

恋愛が人を狂わせるというのは本当なんだなぁとぼんやり思った。自分だって今まで幾つか恋をしてきたけれど、こんな風に凶暴なことを思いついたことはなかった。これを、本気の想い、とでもいうのなら、女はいつだって悲劇のヒロインになりうる。馬鹿げている。くだらない。だけど。

「――好きなんだ、どうしても」

自分の発した言葉が最後の引鉄になったようだった。エースは私のキャミソールの裾を一気にたくしあげた。恋愛っておそろしいけれど儚いものなんだな、と、もうその時には不思議と恐怖感は消えていた。

どこか投げやりに、だけど初めて見る玩具で遊ぶ子どものように、エースは熱心に私を抱いた。その指先や粘膜に何かを記憶させるように。私は何もせずじっとエースを見ていた。今にも崩れてしまいそうな、エースの涙に満ちた目を、私はずっと見つめていた。


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