消えてゆく音



「エース、私に、隠してることがあるでしょう」


この1ヶ月間、リハーサルは頭の中で嫌という程繰り返してきた。一体いつどんな風に言えばいいのかとずっと考えていたけれど、いつどんな風に言ったって、変わるものは変わるし変わらないものは変わらないのだと、本当はちゃんと分かっていた。だから私は至って普通に言ったのだ。おはよう今日もいい天気だね、と言うみたいに。

エースの表情は一瞬で強張った。自身の動揺を取り繕うように「え」と漏らしたその声が、もう掠れている。ああ、分かりやすいなぁ。そして潔い。エースは何かを探るように暫く私を見ていたけれど、そのうち、静かに目を伏せて俯いた。それは、誤魔化したり嘘をついたりすることを放棄した証だ。

ぎゅっと瞼が重くなるのを感じながらも、私は努めて明るい声を出した。

「もー、何で言ってくれなかったの?私びっくりしちゃったよ」

そう言って笑ったけれど、エースは微笑すらせず俯いたままだった。垂れた黒髪から覗く表情を見るのが辛くて、視線を外す。ちっとも怒ってなんかいないのに、どうしてエースは、叱られた子供みたいな顔をするのだろう。笑い飛ばしてくれていいのに。エースが何も言わないから、人気(ひとけ)のないダイニングには、コックが包丁を研ぐ音だけが響いている。


エースに恋人が出来た。
そのことを私が知ったのは、つい最近のことだった。エースはずっと1人のナースに片思いをしていて、それが実ったのだという。そんな幸せなニュースを私が知らずにいたのは、「私とエースは親友だ」という周囲の了解によるものだった。親友なのだから知らない筈が無い、そう認識されていたのだ。だけど実際に私は何も知らなかった。

親友だという言葉に縋りつくつもりは無いし、むしろ私は、親友なんてポジションは要らなかった。だけどエースの傍にいるためにはそのポジションしか無かったのだ。だから、いつだってあっけらかんと、明るく振舞っていたのに。私はエースに恋人が出来たことは勿論、エースがその彼女を想っていたことすら知らなかった。エースは私に何も言ってくれなかった。なにが親友だ、と、笑いたくも無いのに笑えてしまう。

「・・・そんな顔しないでよ。怒ってるわけじゃないんだから」

震えそうになる声を笑顔でごまかして言った。エースはちらりと視線だけを上げて、「あァ」だか何だか言いながら、手元のカップを無意味に触った。カップの中身はとっくに空だ。本当は、ここでコーヒーを飲み終えたら、甲板で一緒に釣りをする予定だった。

「よかったじゃん、おめでとう」
「・・・あァ」
「ずっと好きだったんだってね?他の人から色々聞いちゃったよ」
「・・・悪ィ」


俯いたままエースは言った。その声のトーンに、思いがけず胸が熱くなって、私は押し黙る。自分で言い出したことなのに、いざこんな空気になってしまうと、何もリハーサル通りにはいかなかった。

「もう、どうして謝るの?謝らなくていいんだよ」
「あァ・・・」
「・・・ただ、言ってくれたらよかったのにって、少し思っただけだから・・・」

噂好きな船員から、当たり前のように「エースとあいつが2人でいるところ見ちまったよ、案外似合ってたぜ」と聞かされたときの、どうしようもなさ。思い出すだけで足が震えそうになる。

エースがまた黙り込んでしまったので、私は仕方なく笑った。うまく笑えていなくてもどうせエースは私のことなんて見ていないから構わない。空になった二つのカップを手に取り立ち上がる。この後釣りをするのは無理だろう。もしかしたら、この先もうずっと。


「・・・お前を」

ぽつりとエースが呟いたので私は振り返った。上手く聞き取れず、「なに?」と返す。エースはやはり俯いたまま、自分の手元を見つめていた。

「・・・お前を、傷つけたくなかったから」

だから言えなかった。
小さな声でエースは言った。横顔がまるで、雨に打たれた向日葵のようだった。

エースは気付いていたのだ。親友である振りをしながら、エースの傍にずっといたいと願っていた、惨めな私に。そしてそんな私を、どうすることもできないエース自身に。何言ってるのエース、私がそう呟いても、エースは顔を上げなかった。2人で紡いだ嘘の連鎖が、ほろりほろりと解けてゆく、悲しい音が聞こえた。