窓の外ではゆるやかな雨が降っている。そのせいで、朝だというのにどんよりと薄暗い。今夜はどこかの隊の誰かの誕生日のために宴を開くと言っていたけれど、この雨が夜まで続けば、きっとそれは明日に持ち越しになるだろう。船員たちはきっと肩を落とすに違いない。全員の顔と名前を把握できないほど大所帯のこの船において、誕生日の為の宴はほぼ毎日開かれている。それなのに、たった一日宴を開けないというだけで、船員たちの士気はがくんと下がる。大好きな酒なら部屋でだって飲めるだろうに。―まったくもって、くだらないことだ。




レ ゾ ン デ ー ト ル





窓ガラスの外側が、雨に濡れている。私はそのガラスを室内から指でなぞって、その冷たさにこっそりと肌を粟立たせた。温かだったシーツから抜け出して、大きめのTシャツだけを被った今の格好では、冬島の海上の寒さに耐えうることができないらしい。

私はほとんど無意識に、窓際のチェストの上に置いてあった煙草に手を伸ばした。箱の中には1本しか残っていなくて、新しい煙草を調達する面倒さを思いながらも、それを口に銜える。しかし煙草の横に置いてあった筈のライターが見当たらない。どこかに置き忘れただろうかと、とりあえず煙草を口から離そうとしたとき、ふいと後ろから手が伸びてきて、その人差し指に小さな火が点された。

「・・・おはようエース」

眠っているとばかり思っていたので少々驚きながらも、私は至って普通の声でそう言った。背後に立つ彼は、クッと喉の奥で小さく笑うと、「おはよう」と同じように答える。寝起きのせいだろう、彼の声はいつもよりほんの少し掠れていた。

「火、使えよ。無ェんだろ?」
「ん・・・、ありがと」

私は素直に煙草の先を彼の指先へ近付けると、ゆっくりと息を吸い込んだ。じわりと煙の味が滲む。慣れきったその味は、今更苦いとも辛いとも美味いとも思わないけれど、やはりこれが無ければ私の朝はやって来ないという気がした。

煙草に火を点けるという役目を果たし終え、彼は私から離れる。そしてそのままドサリとベッドに倒れこむ音がした。私は振り返らないけれど、おそらく彼はもう私の方など見ていないだろうし、枕に顔を埋めて、二度寝しようとでもしているのだろう。そう思っていると、本当に小さな寝息が聞こえてきた。眠い体を起こしてわざわざ火を貸してくれたのだろうか。ぼんやり窓を見つめたままでいると、窓枠の溝に煙草の灰がぽつりと落ちた。


エースとこういう関係になったのがいつだったか、正直言ってよく覚えていない。気付けば彼は夜毎私の部屋を訪ねるようになっていて、私もそれを受け入れていた。しかし、この関係には堂々とした名前がない。だから私の隊長であるマルコさんも、私を拾ってくれたオヤジでさえも、私とエースのことは知らない。秘密にしているわけではないけれど大声で話すことも出来ない関係。露骨な言い方をすれば、体だけの関係といったところだろうか。だけどそれにしては関わりが深すぎるような気もする。つまり私自身、この関係性をよく理解できていないのだ。


お前はおれと似たものを持ってる。
エースは時折そんなことを言う。意味が分からず私が首を傾げても、「どっかが似てるんだ」と曖昧にしか話してくれない。だから私ももうそのことについて考えるのはやめてしまったのだけれど、肌を重ねていると、言葉にはしない感情というのが思いがけず伝わってしまうことがある。エースの場合、それはどうしようもなく埋めがたい孤独感。それがたまに隙間だらけの私の胸の中にするすると入り込んできて、私の呼吸まで危ぶめる。だから放っておけないのだ。熱っぽく私に触れるその手を、離すことが出来ない。






とある海賊団に村を壊滅させられて、天涯孤独の身の上になった私を拾ってくれたのは、泣く子も黙る白ひげ海賊団の船長だった。全てを失った私が求めたのはただ死ぬことだけで、それなのにこの海賊団の船長は、生きろと言った。死なせはしない、と言った。死ぬ時はいつか来るんだからそう急ぐな、と、大きな手が私を拾い上げた。

「・・・生きる意味も目的も、楽しみさえも無くなったの」
「グラララ・・・、無くなったならまた探せばいいだけのことじゃねェか。違うか?」

海賊になどなりたくはない、そうはっきり口にした私を、それでも船に乗せてくれたところに、海にも劣らない心の広さを見た気がした。

そんなどうしようもない理由で船に乗った私を、ここの船員たちはとても好意的に迎えてくれた。心を開かない私に飽きることなく話しかけてくれる、優しい人たち。、と気軽に名を呼んでくれる人が再びできたことは、全てを失った私にとってありがたいことだった。けれど、どうしても、あの人たちのようにはなれない。私の心の底、ずっと深いところにある、細い芯のようなものが、まるで氷のように冷えきってしまっているのだ。

生きる意味を探せ、とオヤジは言った。だから私は探している。けれど、この先見つかることなどあるのだろうか。なんだか心の中はいつも今日の空模様のように薄暗くて、舵きりが難しい。

そしてそんな私と同じものを持っていると言うエース。出会った時から、彼は強烈過ぎるほどの眩さを放っていた。いつも明るく大らかで、血の気が多くて。私とは正反対のところに生きているような彼。しかし時折どうしようもなく伝わる孤独感。何度も抱き合って、知らないところなんて無いというほどお互いを見せ合っているのに、肝心なところは、本当は何も知らないのかもしれない。





気付けば煙草がもうずいぶん短くなっていた。最後に一度深く息を吸い込んで、吐く。そして灰皿代わりの空き缶に吸殻を押し込むと、エースのいるベッドに戻った。腹這いになって寝息を立てる彼の隣に滑り込むようにしてシーツに包まると、閉じられていた瞼が僅かに震えて、ゆっくりと持ち上げられた。

「・・・

掠れた声で名前を呼ばれて、私は頼りなく微笑んでみせる。すると彼も小さく笑って、おもむろに体を起こし、そのまま私に覆い被さってきた。私としてはもう一眠りしたい気持ちだったのだけれど、どうやら彼は二度寝に満足したらしい。

、お前、煙草はいつから始めたんだ?」
「さあ・・・、ここに来るずっと前からよ」
「昔のオトコに教えてもらったのか?」

思わず私は目を丸くした。今までそんな風に過去を探られたことは一度も無かったからだ。

「め、珍しいね、そういうこと言うの」

取り繕ったような口ぶりだったのは自分でも分かった。彼は私の前髪をさらりと掻き分けると、露わになった額にやわらかく唇を落とした。まるで慈しんでいるみたいだ、とぼんやり思う。いつもは猛々しいキスが多いので、不意にこんなキスをされると、何だか彼の心の繊細な部分を見てしまったような気持ちになる。胸の奥がきゅうとなる。

何でこんなに感情が動くのだろう。全てを失ったあの日から、私の心は良い方にも悪い方にも動かなかった。だけどなぜか、エースといると、良い方でもなく悪い方でもない、もっと別のところに向かって、感情が揺れる。

「今までは、聞きたくても聞けなかったからな」
「どうして今は聞けるようになったの?」
「わかんねェ。でも、聞けないとかそういうことより、聞きたいって気持ちの方が強くなった」

エースはそう言って私の首筋に顔を埋めると、火傷のような痛みを与えて、そのまま強く私を抱き締めた。何だか妙な心地がした。今までこんな風に触れられる度に伝わってきた、彼の巨大な孤独感が、なぜかほとんど感じない。代わりに、彼の腕ではない違う何かが私を包んでいるような気がする。これは何だろう。どういう感情なのだろう。

「なァ、煙草、やめねェの?」
「・・・どうしてやめてほしいの?」
「男の気配がするから」

少しくぐもった声だったけれど、私ははっきりとそれを聞き取った。何だか嫉妬みたいだね、と言うと、悪りィか、という答えが返ってくる。そうか、エースは私の過去の男に嫉妬をするんだ。ただセックスをするだけの存在の筈なのに、私の過去の男や、その残骸を気に留めるんだ。

エースは、私のことが好きなんだろうか。あからさまな嫉妬を向けられて、唐突に頭の中にそんなことがよぎる。手軽に抱ける女、そう認識されているものとばかり思っていたけれど、実は違ったのだろうか。抱き合う度に伝わってきた彼の孤独は、彼が私に、伝えようとしていたから、伝わっていたのだろうか。だとしたら、彼は私に、助けてもらいたかったのだろうか。何も持たない、こんな私に。

「おれとお前は似てる」

寂しがり屋で、いつも迷ってる。
エースはそう付け足して少し笑った。こわごわと、私も彼の背中に腕を回す。彼が自分で「存在証明」だと言って示す白ひげ海賊団の刺青が彫られた、逞しい背中。

「なァ、お前の寂しさをおれで埋めてくれよ。―お前がそうしてくれたみたいに」



窓の外では雨が降っている。船員たちは今夜宴が開けないことを嘆くだろう。酒なら部屋でだって飲めるだろうに。
―まったく、寂しがり屋ばかりだ。